『リトルバスターズ!』エリザベス問題
瀬川あおい
『リトルバスターズ!』をひととおりプレイしてから、はや一ヶ月が経つ。ちゃんとした感想を書かねばと思いつつ、コミケをはさんだりお盆進行をはさんだり熱海の海を堪能しながら「クドリャフカのふともも最高ー!!」と叫んだりしているうちに、いつのまにかのびのびになってしまった。若いころと違って文章脳が著しく減退している今となっては、本当は日々何かを書き綴ってなくてはすぐにぐたぐたになってしまうのはわかってはいるのだが、どうも思い通りにエディタに向かえない。向かってもかけやしない。えらそうに麻枝研究を標榜している割りには本HP、ずーっと情けない代物しか提示できていないのが事実なわけで、まことに申し訳ない限りだ。(特に末尾アンケートに票を入れていただいている数人の方、わざわざすみませぬ。人知れず一応、励みにはなっているのだっっ)
さて、それではゲームをプレイ後一ヶ月して、だんだん月日とともに印象が薄れてきたのかと思いきやさにあらず、日々を追うごとに、『リトルバスターズ!』のキャラクターのことが脳内にあとからあとからあふれてきて、もう道を歩いていてもなぜか気になって気になって仕方が無い。こんなに事後効果で時間差おいて影響が現れるとは、まったく今までの自分からは予期せぬことだ。正直、最初のインプレッションでは、各女の子の印象があまりにも物足りず、感情移入の度合いが低すぎて、「今回はやる気が感じられないなぁ」という感想しか持ち得なかったのだが、どういうわけか後からじわじわと焼付け効果が効いてきているのだ。男キャラで泣かされる というのは本作品にまつわる常套的感想だが、しかし、よくよく考えてみると、男キャラだから泣かされる ということではない。女の子キャラだって、この世界では十分魅力を発揮している。どれも愛くるしいキャラばかりだ。しかし、従来の「泣きゲー」路線とは決定的に何かが違っていて、「泣く」ことは本作品ではあまり重要ではなく、「泣き」そのものを狙っているとは思えず、まして主たる物語の構成要素が本質的に今までのラインナップとは異なる印象が強い。つまり、手っ取り早く言えば、「恋愛」を主たるテーマから意識的にはずしているのではないか、と思えるのだ。美少女ゲームにおいて絶対的に優先して必要とみなされてきた、「女の子との擬似恋愛感情」を敢えて主たるターゲットからはずし、かわりに「仲間」とはなんであるのかを徹底して描こうとすること。人と人とが寄り集まる理由や派生する効果を描く。もっと言えば、要するに、「リトルバスターズ」というチームそのものを描くこと。「リトルバスターズ」とはなぜ生まれたのか。「リトルバスターズ」がなぜ必要なのか。「リトルバスターズ」なるものはどんな価値があるのか。「リトルバスターズ」とやらはやがてどこへ向かうのか。そういう、「リトルバスターズ」という全体的なくくりの中での主人公のあり方と外部とのかかわり方を、恋愛的要素も絡ませながら、それを取り巻く男キャラも交えながら、総じて世界全体のなぞときも含めて、全てを楽しみながら生き生きと青春ドラマとして見せていこうという意欲に溢れた作品だった。
もともと思うことは、恋愛とは、相手を独占し二人だけの世界を構築していく過程を意味するわけで、常にそこには排除の論理を伴う。すなわち、誰かと一緒にいようとすることは、他の誰かを押しのけようとすることと同義であるわけだ。したがって、恋愛ゲームということは、囲い込みのロジックで形成されるべきもので、最終的には二人だけの世界の完成をエンドとせねばならない必然を帯びているものだが、こういう一般的美少女ものの物語進行の手続きとは明らかに異なるロジックで、本ストーリーそのものは進行していると思えてならない。恋愛という形で好きな人をエンクローズするより、なにより、もっと人として本質的なこと。仲間を増やすこと。世界を拡張すること。好きな人の輪をどんどん広げること。独占するより、共有すること。みんなで何かを一緒にやって、共通の目標を得て、そして最終的には共にただそこに一緒に居られること。自分の存在できる場所を仲間の中に見出すこと。紛れもない「リトルバスターズ」の成員としてあろうとすること。その快歓と充実感を青春のエネルギーに乗せて描ききったところに、従来の美少女恋愛至上路線とは違った非常にエポックメイクな価値を見出せるのだと思う。したがって、もし、本ストーリーも敢えてひとつの恋愛ものとして考えるとするなら、主人公が恋すべき対象は、「リトルバスターズ」そのものなのだ。そこには恭介がいて、まさとがいて、けんごがいて、鈴がいて、さらに今この時、新たに加わった個性的で可愛らしい五人の仲間がいる。囲い込みの壁がもしあるとすれば、この十人の内と外の間にこそあるといえるのだが、その点は、いまだ世界の秘密というわけだ。
それでまぁ、なんというか、ここで一つわびねばならない。
本稿のひとつ下、[『リトルバスターズ!』発売に寄せて] のところで書いたあまりにも自信たっぷりな主張を今になって修正せざるを得ない状況となってしまった。もともとゲームを終えた勢いでインプレッションだけを描き飛ばしたものだったので、あいまいな記憶だけで後確認をとらず結論まで一気に走ってしまったが、それなりに時間が出来たので再度リプレイさせてみたところ、決定的な勘違いに自分で気づいてしまった。リズベス=エリザベス 和名、来ヶ谷唯湖。その、ED1(注:1)。最後の最後、窓辺で電子ピアノを弾いている少女。一見、来ヶ谷さんらしくない風貌なのだが、やっぱり来ヶ谷さん。そこまではいい。だが、あまりにも衣装がいつものフォーマットと違っていたのでてっきり私服と間違ってしまったが、見返してみるとまぎれもなく制服だ。この点ちょっとややこしいのだが、来ヶ谷さんは春の段階から開襟の夏服を着ていた。ブラウスは夏服のはずなのになぜか、冬の上着をはおっていた。だから間違ってしまった。ここでの季節は初夏。窓辺のリズベスは、本来この学院の女生徒が着ているべき夏用の制服でピアノを弾いている。来ヶ谷さんはこれまでずっと開襟シャツにノーリボンという、つまりは己が胸を極限まで強調したいでたちで理樹くんをどぎまぎさせてきたのだが、ことここにいたっては、当たり前に静粛な女生徒として現れる。ゆえに、今までの来ヶ谷唯湖とは決定的に違う印象を与えている。
基本的に、『リトルバスターズ!』においては、登場人物は全員一学期春の制服を着ている。それは、この世界が一学期の初めから修学旅行までの期間をぐるぐると何度も繰り返しているせいに他ならず、つまり、修学旅行以後に来るはずの「夏」は永遠に訪れないというのが前提にあるので、夏服の出てくる番がない。にもかかわらず、ED1の来ヶ谷さん・・・これを仮にリズベスとここで呼ぶことにするが・・・来ヶ谷唯湖であるにもかかわらずわれわれの知っている来ヶ谷唯湖ではない彼女=リズベスは、初夏の訪れに際して、夏服を装着しているのだ。これは物語の流れを完全に無視しており、永遠にループする夢の世界の外側に位置しているショットとしか考えられない。さて、どういう解釈を行なうか?
言うまでもなく、初見の段階では私服と勘違いしたので、これを現実世界のリアル来ヶ谷さんとみなした。と同時に、私服であることを根拠に、来ヶ谷さんが学園外の人物と考えた。しかし、この窓は放送室の窓であり、リズベスは、理樹の学園の夏用制服を着ているのだ。この場面描写で来ヶ谷さんが理樹と同じ学園の生徒であることはまず間違いないであろうというわけで、ひとまずこの点は修正。某2chの書き込みでは学外の人間だとして書いたので、みんなを驚かせてすまぬ。(もっともリアルワールドで完全に学内とも言い切れないのだが‥・確率的には五分五分か)
で、普段の開襟にノーリボン+上着の来ヶ谷さんの姿というのは、彼女自身の自己演出の結果であり、本来の来ヶ谷さんではないだろうというところから出発して、このED1のリズベスこそが現実の来ヶ谷さんが正確に反映された姿であろうと予測する点については、ここでも未だ主張を変えるつもりはない。端正な淑女。ピアノを弾く令嬢。身なりのきちんとした美少女。さびしげではかなげなリズベス。それがリアル・来ヶ谷唯湖だとして、しかしながら、このED1の世界にどうして、「夢」の世界で理樹が打ったメールが届くのか? そこが解けない。つまり、物語内部で完全に「夢」として種明かしされてしまった、一学期を永遠に繰り返すループ世界よりはより現実に近いはずであるが、なお、その「夢」の世界からメールが届いてしまうという、現実と夢との中間世界がこの、ED1ラストシーンということになっている。
しかも、この世界は、常に、「夢」の中の理樹にピアノの音を聞かせ続けている。彼はこれが世界のほころびの元凶だと信じて、ピアノの音さえ止めることが出来れば来ヶ谷さんを自分の元に取り戻せると考えるあまり、放送室のピアノ周りの電気コードを片っ端から引きちぎるが、音は決してやむことはない。なんなれば、理樹がずっと聞いていたのは、理樹の世界のピアノが奏でる音ではなく、そのバックグラウンドで本当の来ヶ谷唯湖=リズベスが孤独に弾き続けているピアノの音だったからだ。また、理樹が眠りに落ちたときにいつも見ていた曇りガラス越しのさびしい映像は、まさしくこの放送室における一人きりのリズベスの視覚世界を脳裏に映し出したものだ。「夢」の中で見る夢とは、つまり反転した「現実」であるしかない。
このあたりを根拠として、リズベスは現実(?)にはずっと放送室でピアノを弾いている存在であり、その外部世界から「リトルバスターズ」という、恭介たちが作り出した一学期を繰り返す「夢」の世界に参加しているにすぎず、したがって来ヶ谷唯湖は実はクラスメートではなく、バスの転落事故にもあっていない・・・という主張はここでも維持し続けておきたいと考えている。実際リズベスだけが修学旅行以後の時制=夏を迎えているという事実とも矛盾しないはずなのだが、しかしながらそこが完全なリアルなのかというとそうはならない。「夢」の世界から理樹のメールが届いてしまっている限り、そこもまた「夢」に他ならない。この辺のロジックは正直、いまだにきちんと解けていないと自分でも思うのだが、むしろ、ことはもっと単純に考えるべきかもしれない。来ヶ谷唯湖には「夢」が二つあるのである。
リアル来ヶ谷唯湖は、放送室でピアノを弾いている「夢」を一人ぼっちで見ていた。
そこは、リズベスの独りだけの夢の世界。
しかし、ふとガラスの向こうをのぞくと、そこに光の玉がいくつも浮かんでいる。
リズベスは光の玉を集めて、みんなの「夢」を見始める。
リトルバスターズの世界がはじまる。
そこで、リズベスは、現実には存在しない自分の理想としての来ヶ谷唯湖になり、一歩引いたかんじではあるものの、楽しい仲間の一員としてすごす。
あるとき、あるタイミングで、夢の中の来ヶ谷唯湖は、直枝理樹という少年と恋におちてしまう。
リズベスは動揺する。
彼女はずっと独りで生きてきた、感情のないロボットのような自分を内心肯定していて、他人と触れ合うことを本来拒絶してきた存在。
いきたけ高で自信たっぷり、普通に人と話しが出来る自分は、本当の自分ではない仮面(ペルソナ)にすぎない。
唯湖の本心は、理樹と一緒にいたいと願っているし、理樹と恋をして、さらにその先を望んでいる。
だが、潜在意識下の彼女は、理樹の愛情が自分に向けられれば向けられるほど、他人と精神的に交わる抑えがたい恐怖に駆られ、記憶の遮断を始める。
直枝理樹とデートした事実、直枝理樹に告白された言葉、直枝理樹とつきあっている関係、そのほか、直枝理樹との恋愛にまつわる全ての記憶を、顕在意識から消し去ってゆく。
だが、この世界とは何であったか?
つきつめるところ、この「夢」の世界とは、来ヶ谷唯湖が見ている夢である。
夢を顕在化させている唯湖が、記憶を失うとはどういうことか?
たとえば、6月20日に、直枝理樹に手作りクッキーを食べてもらったとしよう。
唯湖が理樹と接近すればするほど、唯湖の潜在意識下、内在する恐怖心が彼女の幸せな記憶を蝕んでいく。
唯湖がその日眠りに落ちたとき、彼女の記憶野からはまるごと6月20日に関する事象が消し去られる。
6月20日についての記憶が消失してしまった彼女が翌朝目覚めたとき、彼女にとってそれは何日だろうか?
・・・・・・。
「夢」を作っているのは彼女なのだ。
カレンダーも、時計も、みんな彼女の「夢」が作り出している。
直枝理樹が、部屋に置いている時計も、テレビも、カレンダーも、全ては来ヶ谷唯湖の「夢」。
だとすると、6月20日の記憶がなくなってしまったとき、唯湖の世界はどうなるのか?
・・・・・・。
思い起こそう。
唯湖と理樹がはじめてデートをしたとき、二人の間に水を差すように雨が降っていた。
唯湖と理樹がその後、恋人として会うたびに、外は雨だった。
どんなに待っても、空は晴れない。
やがて、逢瀬を重ねる二人の世界は、雪に包まれる。
この世界は、気象という現象も含めて、唯湖の意識の内面が影響し、ありえない風景を無理やり作り出しているのは間違いない。
だが、全ては潜在意識下における恋人関係の拒絶であり、つまりは、親しくなってはいけないとする、彼女の意識下のシグナルであり、それらは彼女自身にしても制御するすべがない。
どんなに抗ってもどうすることもできず、唯湖は、だんだんと直枝理樹に関する記憶を失っていく。
それは彼女自身の心が自分を防衛するために発動している機制ということになる。
完全に彼女が理樹のことを忘れ去り、6月20日に理樹との恋人関係の記憶がなくなれば、6月20日は消し去られる必要がなくなり、世界は6月21日へと再び進み始められるだろう。
だが、直枝理樹との関係が完全に消失する世界とは、結局、来ヶ谷唯湖独りきりの世界に過ぎず、それはつまるところリトルバスターズを離脱した、リズベスの世界。
放送室で独りきりでいる、元の世界への回帰となる。
さてさて、ここでひとつ、6月20日という日付が出てきたわけだが、言うまでもなくこの日は、理樹と唯湖の恋をしあった日の最終日である。そして、6月20日は何度も何度も繰り返し、やがて世界が何も存在しない「白」に包まれていって、二人のいる放送室を最後に消失してしまう。直枝理樹と来ヶ谷唯湖の二人の「夢」が終わってしまう日である。
はじめこの日付には違和感があって、季節的に何かの誤りではないかと考えたのだが、この学園の舞台が関東より北、福島とか仙台ぐらいであれば、衣替え前だとしてもまだ合点がいくのだろうか。僕の住んでいた高知では、6月入っての冬服はありえない。もっとも東北ぐらいになると生徒が標準語ではなくきつい方言を使うようになると思うので、ぎりぎり東京から200キロぐらい北の街を想定してみた。高校の修学旅行でいまどきバスを使う予算のなさや、きつい山間部へ入っていることからも、仙台の学生が東北の奥入瀬とか酸ヶ湯とか、その辺を目指していたと想定してもいいかもしれない。なお、学園から車で少し走れば海が見えるというのも条件のひとつになる。全寮制という規模からして、県庁所在地の中核都市であるともいえそうだ。
次に、修学旅行の事故はいつ起こったか? なのだが、少なくとも本ゲームのシナリオ上、5月25日あたりまでは具体的な日付が表示されているので、それ以降の事件なのは確かである。6月20日以前か後か、かなり悩んだが、直枝理樹がここにいることを考えるとすると、6月20日より前に修学旅行があったとは考えにくく、ぎりで6月21日の事件と考えてみた。少なくとも7月に入れば北日本の学校も夏服体制に入ると思うので、全員冬服を着ているあたりから遅くとも6月中・下旬には修学旅行に行っているはずである。なお、バスの転落は、恭介が誰にも見られずに隠れていられたことから推測して、修学旅行初日のことである。
恭介の解説によると、バスが転落し、ほとんどの生徒が助からない大惨事となったそのさなか、死の直後もしくは死にゆく際の心の波動が他の生徒たちの波動と響きあって、総勢10人による「みんなの夢」の世界がはじまった。そして、一学期のスタートから修学旅行までの期間を何度も何度も繰り返すことで、終わらない世界がそこに浮かび上がることになる。といっても、「修学旅行」出発そのものの記憶やその準備に関する記憶などは、この世界の秘密を理樹と鈴の前で伏せている事情から鑑みて意図的に省かれていることだろう。この夢がスタートできた事情、みんなの心が寄り集まれた理由などは一切わからないとされているが、恭介はある程度この「夢」の世界に干渉し制御する力があったようだ。不自然にならない程度に、思う方向に引っ張っていっている。だが、成立の構造上、この「みんなの夢」は修学旅行前には必ず終了するはずである。少なくとも、事故で死んでしまった者たちにとっては、「夢」がその日付を超えることはない。・・・この約束事は世界を整理して読み解くうえで非常に重要なことのように思える。恭介自身、はっきり言葉で、「夢」は修学旅行前までと言っているのだ。
さて、総勢10人による共同の「夢」の世界=リトルバスターズ結成の夢なわけだが、来ヶ谷さん がこれに参加してきた当初は、当然この世界は「みんなの夢」だったはずである。そして理樹も恭介もこれに参加している。では、来ヶ谷ルートにおいて、6月20日が何度も繰り返して先に進めない状況下では、そこに恭介はいただろうか? その「夢」に彼は参加していたか? まさとは? けんごは? ‥‥確証はないのだが、世界が不自然に壊れていく過程では、もはや彼らはいなかった。無論、教室で、廊下で、それらの顔は見ることが出来たが、すでに機械のように動き、当たり前の言葉だけをしゃべる「影」にすぎなかった。心をもっていれば、世界を作り出しているメンバーならば、この事態にもっと抗うはずである。したがって、6月20日の時点では、この世界には、直枝理樹と来ヶ谷唯湖しかいなかった。そこは二人だけの「夢」の世界になっていた。しかも、「夢」を成立させている力は唯湖だけのものであり、理樹には介入権がない。ここは唯湖の望みをかなえた世界であり、そこに理樹の魂が取り込まれているという状況が正しい。そして、来ヶ谷唯湖の記憶消失と同時に世界は白で埋め尽くされ、存在を終えるのである。その日付が、6月21日。これ以降二人の世界は存在しない。では、ここで頭に戻るのだが、いったいいつ、「みんなの夢」が理樹と唯湖の二人だけの「夢」になっていたのか。きっとどこかで世界がすり替わっているはずである。
来ヶ谷さんによると、自分が恋をしたとき、それを望んでしまったとき、この夢は始まってしまったのだということだった。感覚的には、恭介たちが校庭で花火を打ち上げたあたりでは彼らはまだそこにいた雰囲気なので、それ以後、やっぱり理樹と唯湖が放送室で会うようになったあたりから、世界が変わってしまっているように思う。そもそもこの放送室そのものが、来ヶ谷唯湖の根城のイメージであり、他のものを寄せ付けぬ「夢」の結界になっている可能性がある。理樹が放送室にはいって出た瞬間には、もう、唯湖の「夢」の世界に取り込まれてしまっていても不思議はないはずだ。以後、携帯がつながったりメールが届いたりという世界の接続性も、来ヶ谷さんのメンタルに大きく依存することになる。彼女の精神が安定しないと、理樹はコミュニケートしたり会うことができない状況に陥るわけだ。こうして、理樹と唯湖が二人だけの世界を作っているバックグラウンドで、恭介たち、残り八人の世界は成立しているかどうか。そこはゲーム内では不問だが、可能性としてはその間も「みんなの夢」が続いていると考えるほうが自然だろう。直枝理樹には、唯湖との「夢」が終わったあと、帰るところが必要だからだ。リーダーの恭介が、理樹の帰りを待たないとは思えない。ちゃんとリトルバスターズは主人公の帰りを待っているはずである。あるいは、6月21日が本当に修学旅行の日なのだとしたら、唯湖と別れた後の理樹は、冒頭の時制にループするはずである。実際ゲームをプレイしているとそういう流れになっているはずだ。
こうして考えてみると、既に「夢」は二つでてきている。それらはまじわることがなく峻別されねばならない。ただし、表記上同時に存在することは可能である。つまり、時制が重なっていてもかまわない。厳密に言えば、日付というものは、その「夢」内部での約束事であり、「夢」どうしの関係性においては絶対的な意味を持たない。構造的には相対時制なのである。そうであるからこそ、ある「夢」における5月25日に直枝理樹がいて、また別のある「夢」における5月25日に直枝理樹がいることも可能である。それらは5月25日という表記に過ぎず、絶対的な5月25日を意味するものではないからだ。同時に存在したとしても、直枝理樹が分裂しているわけではない。ただし、それぞれの「夢」内部の時制においては約束事があって、少なくとも恭介が見ている「夢」は修学旅行の日付を超えられない。つまり、早い話が、彼のいる「夢」の世界では夏や秋がやってこない。死んだ日よりも未来へはいけない。だから、過去へさかのぼっている。そして、時制の限界に到達すれば、また過去へ戻って繰り返すしかない。つまりは永遠にループする世界になっている。この約束事は、まさとや、けんごや、こまりや、美魚や、はるかや、クドにおいても変わらない。死んでしまっているものたちはみんなループする。限界を超えられない。では来ヶ谷唯湖はどうか?
唯湖がみんなと一緒にいるときはループする。それは「みんなの夢」であり、そこの規則性に依存する。唯湖が理樹とふたりだけの「夢」を見ているときはどうか。規則は唯湖自身が作っているが、唯湖の潜在意識は理樹を拒絶し、忘却し、結果的にこの「夢」を6月21日未到達のまま終わらせてしまう。抗っている間は6月20日をループするが、記憶消失と同時的に世界も消失し、ふたりともこの世界にはとどまっていることはできない。なんなれば、そこで「夢」は覚めてしまうからだ。
ここで、驚くべきことに唯湖ED1においては、更なる唯湖の「夢」が登場する。冒頭で書いた「リズベス」の「夢」だが、ここでは唯湖ひとりきりになっている。直枝理樹は存在しない。そして時制は、初夏である。すなわち、6月21日より後、少なくとも7月初旬には入っていると思われるが、当然のことながらこの時制は「修学旅行」という限界を突破している。したがって、「みんなの夢」にいる恭介たちは約束上、この日付の世界にやってくることはできない。また、直枝理樹の魂が「修学旅行」迄の「夢」をループしている間は、決してここにも到達できない。もし、来ヶ谷唯湖=窓の外を見ながら理樹の到来を待つリズベスのもとに約束どおりやってくることができるとしたら、それは、理樹自身が「修学旅行」という限界時制を突破したときでなくてはならない。彼が事故で死ななければ、未来の来ヶ谷唯湖に会うことが可能になるだろう。裏を返せば、この「未来表記」を持つ唯湖は、死んでいない。また、彼女自身は「修学旅行」という限界点を突破する必要がない。なぜなら、彼女の場合は、はじめからこの放送室にいて、「修学旅行」に行っていないのだ。だから、事故のことは知らないし、死は彼女とは無縁だ。むろん本人の言うとおり、ループする「みんなの夢」のからくりも事情もまったく知らない。ただ、曇った窓の外にふと、それが見えたから、なんだか興味をそそられた参加していただけなのだ。たださびしかったというのが、その動機だろう。プログラミング的に言えば、スコープの作製だ。
結局、来ヶ谷唯湖の参加する「夢」という観点で整理すると、この三つが明らかになってくる。
@リトルバスターズの夢
A理樹と二人の愛の巣
Bひとりきりの放送室
@は、みんなで見ているが、それゆえに修学旅行前という限界点が決まっており、繰り返している。
Aは、直枝理樹と二人で見ているが、6月21日には消えてなくなってしまう。
Bは、@の前から見ているし、Aの間も理樹の頭にピアノの音を響かせている。また、眠っている理樹の夢に視覚的に現れる。そして、Aが終わった後にもずっと続いている。限界がない。
当初、Bはリアル(現実世界)の来ヶ谷唯湖だと思っていた。最初のインプレッションではそういう前提に基づいて書いていたが、Aで理樹が送ったメールがBで届いてしまうのはなぜか? リアルだとするとありえない話しなのだ。必然的に想定されてくるのは、Bも「夢」であるという結論。そして、麻枝パターンからいくと、これはたぶん、来ヶ谷唯湖の「終わらない夢」であろう。それは、リアル唯湖という、ずっと目覚めることのない少女が見ている、悲しい終わらぬ「夢」というのが、僕の最終的な本稿における結論である。
こうして仔細に見ていくと、『リトルバスターズ!』に描かれている世界観というのは、過去の麻枝作品と非常に似通っていることがわかる。なぜかとても懐かしい。たとえば、来ヶ谷唯湖がクラスメートから次第に忘れられてゆき、理樹だけが覚えている状況。彼女自身も、愛するひとのことをわすれていってしまう状況。世界のこうした不合理な変容から必死にあらがい、なんとか愛しい人のことを心にとどめていようとして、互いに触れ合い気持ちをつなぎとどめようとするも、やがてはどうしようもない記憶の消滅によって別れをよぎなくされる。この、あまりにも唐突で何の理由付けもない問答無用の不条理さと切なさの濁流は、かつて、麻枝氏が『ONE』という作品で主体的に作り上げた幻想的設定とまったく同じものだ。そして、かの作品と非常に似通ったフレーズの音楽が、来ヶ谷さんの「夢」の変遷の過程でいくつも挿入されている。かの作品を覚えている人ならば必ず気づくはずである。明らかに、麻枝氏は『ONE』のセルフパロディというべき状況をここで演出しているのだ。それは、忘れられかけた原点への回帰といえよう。世界は、『ONE』に始まり『ONE』に帰っていくように、僕には思える。待ち続ける少女のもとへ、彼を忘れなかった彼女のところへだけ、最後の最後に主人公が帰ってくるシーンも含めて、来ヶ谷唯湖の「夢」は、『ONE』のストーリーを本当に忠実に守っている。時々、みさき先輩が帰ってきたような気持ちになるのは、僕だけではあるまい。
同様に、美魚シナリオなども逆「ONE」状態といわれていて、一番いとおしい人がこの教室からいなくなってしまう‥しかも誰一人、その不可思議に気がつかず、クラスメート全員がいなくなった人の記憶を同時に失っていく状況というものが描かれる。このサブストーリー自体は本当のところ、麻枝氏によるものではないが、現在のKEYの新規ライターが、かつての麻枝作品の用語を用いながらセルフパロディに徹しているのは非常によくわかる。「あって、ない」 などという表現は本当に懐かしく、よくぞそんな言い回しをここで再現することを麻枝氏自身許したものだなと思えるほど、なつかしかった。そして紛れもなく、目指している世界観も含めて、彼らが『ONE』を生み出した天才たちの末裔であることを、心から確信したのだ。つまりは、原点に回帰しながら、この十年間何一つ変わらずに、麻枝准は去ろうとしている。かなしいほどによくわかる、三つ子の魂が百まで続く、氏の作家としての魂魄だといえよう。それを目の当たりに対峙している自分という存在の不思議なシンクロニズムに、なお、ゲームをやっていた時間を離れても、さらに加速度的にひきつけられ続けていくのではないかと思うのである。
それにしても、麻枝准はこの『リトルバスターズ』にしても、『ONE』にしても、はたまたその間に発表してきた作品たちにしても、それを「夢」の世界のものとして描こうとしているのだろうか。あるいは、「夢」に見える「現実」を描こうとしているのだろうか。確かにそれぞれはこの世にありえない不思議な幻想の世界を描出しているが、その中に表現される主人公たちの思いの深さはリアルな世界を上回っている。むしろリアルに生きているはずの受け手の足元を狂わせ、幻想世界の中に再度世界の足場を作らせているような、そういう作品群として繰り出されてきたような気がする。そういう意味で、麻枝作品はどんなジャンルのメディアよりも圧倒的に「物語」というものを語っていて、そこには、「夢」と「現実」の無境界なる境界性が提示され、まさにそれこそが本質的な人間にとっての物語性(ストーリー)なのだということを言い表してきた。つまり、なぜ僕らはゲームをするのか? という点も含めた、その究極の答えを求め続ける本能的な姿こそが、言うなればこの十年に渡って物語を送り出し続けてきた作家自身の「ゲーム」であった。そう、麻枝氏自身が、究極のゲーマーであるがゆえである。だから彼にとっては、われわれもまた、状況を構成するひとつのゲームのコマにすぎないのだろう。
ひとつ、この最後といわれる作品で明らかになったこと。
麻枝は「夢」を否定しない。また「現実」をも否定しない。
そのはざまでもがきながら、かけげえのない人と人との絆に生きる人間。
それだけを、信じて、ただ、夢と現実の境界性を問うことの無意味さのみを、ずっと語り続けてきたのではないかと思う。
それは若き作家の十年の時を費やした、長い長い旅路であった。
2007.9.3
(注:1)承前のことであるが念のため付記。来ヶ谷さんエンディングには2種類がある。ただし、1stプレイの際は、ED1しか見られない。すなわち、メールをくれた理樹がやってくるのを放送室でピアノを弾きながら待ち続ける窓辺のリズベスで終わるのがED1。ED2はいったん、Refrain迄を終了させた後、再度来ヶ谷シナリオをやり直したときに選択ができる。理樹のことを覚えていると選択したとき、季節は秋になり、来ヶ谷唯湖は教室で気持ちを告白する。消えていったあの6月20日の約束を果たすわけである。
解答 27 人中 yes= 23 人 no= 4 人