『リトルバスターズ!』発売に寄せて(本編)
エリザベス関係は一部再検討中につき、色かえで注を加えてます。
瀬川あおい
(笹瀬川派)
麻枝准最後のシナリオとなるかもしれないということで期待していた『リトルバスターズ!』。約三日でなんとか終わらせたが、途中、エンディングを迎える毎にパソコンの電源が勝手に落ちてしまい、テクニカルノートとくびっぴきでああでもこうでもないと設定を変えOSまで変え、最終的にはパソコンそのものを変えての、本当に綱渡り的なだましだましのプレイであった。エンディングを流す前にシナリオクリアフラグを立てておいてくれると助かるのだが、フラグがたつ前にプログラムが落ちてしまうと、また最初からやり直しという、悪夢にも似た非効率性で、なきげーとはよくいったもので、意味的に違うものの正直マジなきしそうになったこともしばしば。とにかく合計100回は電源が落ち、最後はOSごと逝ってしまったという、いまだかつてないおそろしいゲームとの遭遇であった。
しかし、そこまでして最後までがんばった甲斐もあって、最後は非常に透明性の高いつきぬけた感動を味わうことができた。世界観やファンタジー性の構造はこれまでの麻枝作品と同ラインに並ぶものだったと思うが、今回はより一層謎がクリアに解明されており、何も疑問点が残らない爽快性がある。おそらく今までの氏の作品と比べても最もユーザー寄りで親切な配慮にあふれていたのではないだろうか。そして、人間関係のテーマで行けば、今回は恋愛志向でも家族志向でもなく、ただひたすら「仲間」への友情が前面に繰り出されていた。この点でも、麻枝作品としてはこれまでにない新しさを秘めており、加えて、男性陣のかっこよさ、友情の美しさが抜群に目を引く。その分、恋愛上の絆や恋慕の喪失性による泣きの要素はレベルダウンしていたが、すばらしい仲間たちに囲まれながら今一瞬のこの時代を駆け抜ける爽快感は、これまでになく群を抜いて気持ちのよい感動を引き起こす。そして、その少年時代の理想郷世界がやがて終焉を迎えようとするとき、主人公は新たな意思を持って決然とこれからの現実的未来へと立ち向かっていくのだ。ひとつの人格的成長譚の完成形が、ここでは見られる。訴えかけたかったのは、現実に負けない前向きな人生であり、自ら作り出す勇気ある未来であろう。「リトルバスターズ!」はそのままに、お前も自分のリトルバスターズを作って未来を切り拓いてみろ、という恭介の叱咤激励を表した物語だった。いわば、ここで、ユーザーにも新たなミッションが与えられたのだ。世界が閉ざされるその前に、現実(リアル)へと飛び出すあの校門を駆け抜けて、人生のネクストを俺のかわりに目指せと、彼は背中越しに語って去っていった。もしもこれが本当に麻枝准最後のストーリーとなるのであれば、まぎれもなくそのメッセージは氏そのものから発せられる遺訓なのだ。男泣きに暮れながら、最強のリーダーは背中を向けて学園の校舎にゆっくりと消えてゆく。あまりにもかっこよすぎる・・・。
さて、僕のここでのコラムは主に、作品感想というよりは、麻枝准の繰り出す世界観の解読という作業を目指している。今回も、氏独特の、「繰り返す日常世界」は健在であり、いつもはあいまいな幻想性のまま放置されるその存在理由も、きっちりと回答が与えられている。それは「夢」なんだと。ただ、個人の見る「夢」なのではなく、みんなが同時に見ていてみんなが参加してみんなで作っている「夢」だと。だからその中ではみんなが本当に生きているのと変わりない、「現実」のひとこまでもあるんだと。そういうストーリーだった。実際そういうことが起こりえるのかどうかはわからないが、「共時性」という言葉がこの世には存在するので、いまだ未解明な潜在意識下ではそういうこともあるかもしれない。複数の人間の意識が無意識化でつながって共同的な事象を認識することを共時性と呼ぶが、それならば麻枝准の仕掛ける構造世界はたぶん、共時性幻覚と呼ばれるべき代物であることが、ここでようやくはっきりしたといえるだろう。それは夢の中の出来事と同じで、きわめて無時間的で、前に進んでいるようで実は進んでおらず、記憶を元に形を変化させながら世界はリプレイされ続ける。しかしながら、共同幻覚であるので、夢の内部に「他者」は確実に存在する。そうして、あらかじめ予定された期間をみんなで思い思いにすごし終わると、またスタート地点に戻って同じ時間を繰り返し始める。それはいつまでたっても覚めないリアルな夢だが、美魚曰く、夢と現実を区別することは不可能である・・と。その中で、恋をしたり、友情を語ったり、家族を作ったりという作業も、リアルな意味でアリなのである。それはみんなで物語を作る行為にも等しく、そこに自分とは違う人がちゃんと参加しているとしたら、覚めない夢もまた、現実である。
ところが、麻枝文学ではいつもこういう装置を繰り出しつつ、結局は物語の終焉で夢が覚めてしまう構造を持っている。共時性幻覚には必ず理由があり、物語には始まりがあり、主人公がいずれいだく他者への恋慕はこの世界の禁忌に触れ、それまでの日常が瓦解してゆく。たとえば時制が狂ったり、記憶変調が起こったりして、世界は自己修復的につじつまあわせを始めるのだが、結局は人の消失(他者の退場)を契機として終了を迎えてしまう。これらの過程、すなわち、物事を忘れたり、あるいは過去の片鱗を思い出したり、記憶と現実の齟齬を描写したり、見えるべきものが見えなかったり、逆に見えていたりという、日常に浸透する世界のほころびへのミステリーとしての描写が麻枝氏は非常にうまい。じわじわと、本当にじわじわと日常は侵食されて、気がつかないうちに恐怖に蝕まれていく。むしろ第一級のオカルト的要素をはらみながら、世界の構造破綻とその幻想性に触れてゆき、最後は主人公そのものもその世界から退場を余儀なくされるという、「ONE」以来の伝統が形を変え品を変えて繰り出される。ただし、なぞめいたこと、不思議なことも、それらがすべて記憶に依存する「夢」なのだと、ついに最後の作品では暴露してしまった気がする。なぜ、今までそれではそれらのストーリーが「夢」と気づかずにきたのか? そこにはトリックがあり、他者の視点で物語を切り替えて視ることにより、その世界の(仮の)実在性を証明してきたのである。ゲーム世界とは主観世界表現を基本としているので、別の誰かの視点で同じ世界を承認させれば、それが少なくとも二人にとってのリアルだったと証明できる。しかし、結局は二人だけのリアルにすぎない。それでは三人から見た世界を描写したら・・・そこは三人のリアルになる。四人ならば四人の主観によるリアル。五人ならば、十人ならば・・・かくして「リトルバスターズ」は結成されたのである。ただし、修学旅行のバス一台分の生徒全員のリアルではない。そして、必ずしもそこに存在する人間だけが参加しているわけでもない。共時性幻覚は一般に物理的な空間の遮りや距離を無効化するので、共同構築される夢への参加者は、今そこにいる人とは限らない。多くの人がたぶん見逃している事実だと思うが、来ヶ谷さんは、この学校の生徒ではない(これについては現在再検討中)。バスには乗っていない(これは今でも確信)。ここではない場所(放送室)でずっとピアノを弾いている。しかしながらここで「夢」を形作っている「リトルバスターズ」の一員であることは紛れもない事実なのである。来ヶ谷問題はいわばトリック内部のトリックのようなもので、この部分に関しては恭介も気づいていない。したがって、恭介たちが作り上げた世界崩壊の原因にもなるし、そもそも、端緒においては世界を構築した主たる原因ですらあるという事実は、おそらく誰しもが気づかずに通り過ぎるポイントなのではないだろうか? もしも、いまだ解明されざる疑問が残されているのだとしたら、それは来ヶ谷さんを契機とするものだったにちがいない。彼女こそが無自覚な、この世界の「神」だったといえよう。
繰り返す日常。循環する世界。それに理由を与えることは容易ではない。しかし、アドベンチャーゲームというトライ&エラーの構造上、同じ日にちを少しずつ内容を変えながら繰り返すのは内容的に必然であり、プレイヤーがリプレイすることを前提にその繰り返される物語世界全体に物語内部からも理由を与えようとするのは、麻枝氏のストーリー作りのゆるぎない基本スタンスであったかと思う。だから、これまでの氏の生み出した物語はすべて夢がかかわっている。いつかあった現実と、その記憶と、そこから繰り返される夢の話。それが全ての麻枝マジックの正体であることがようやく白日の下にさらされた気がするが、なお、それだけでは解明できない難解さをストーリーが秘めているのも事実である。「リトルバスターズ」では、まず、恭介というキーマンが存在し、彼の意識が触れた人たちの間で共同してこの「夢」の世界をスタートさせた。「夢」の目的は、理樹と鈴をつよい人間にきたえあげ、いずれ対峙せねばならない過酷な「現実」と向き合えるように成長をしむけること。「夢」の中で恭介はほぼ万能な力を持ち、何度も何度も、理樹と鈴が自立して強くなり人生の正解を見出すまで「夢」をリセットしリスタートさせてやる。しかも、「夢」のリセット、あるいはリスタートのことを、みんなは知っている。「夢」が振り出しに戻っても、みんなの意識はリセットされない。だから前回の「夢」、前々回の「夢」、前々・・回の夢、すべての繰り返す日常のことをみんなは覚えている。しかし、理樹と鈴は毎回記憶も消去され、振り出しへと立たされている。これらのルールは恭介が決めたことだろう。しかし、なぜそのような「夢」が可能なのかは、彼も知るところではない。ところが、ゲーム中で異変が起こるのは来ヶ谷さんが介入してきたときだ。彼女と理樹との恋愛関係が成立したとき、この世界は狂っていく。世界は同じ日にちを繰り返し始め、先に進めなくなる。また、来ヶ谷さん自身には記憶の変調が起こる。理樹とデートしたり、告白されたりという記憶がなかったものになってゆく。やがて、来ヶ谷さんは人々から忘れられ、クラスメートですらなくなって、この世界から消えてしまう。彼女のこの世界での記憶も消滅し、一人きり窓辺で静かにピアノを引き続ける来ヶ谷令嬢の姿・・・(来ヶ谷ED1)。世界が異状をきたし、クラスメートの記憶から彼女が消滅するさなか、来ヶ谷さんは言った。「これは私の夢」だと。しかし、なぜその「夢」が壊れていくのか、その理由はわからないと。その真相を開き見れば、彼女だけは外部の人だったから、ということだ。来ヶ谷さんは、恭介たちが作り出した「夢」に外から距離を隔てて介入し、「夢」の共有メンバーとして参加した。しかしながら、理樹の関心が「外」である彼女に引っ張られてしまったら、恭介たちの「夢」は変形し崩壊してしまうだろう。世界が壊れてしまう前に、必然的に、「外」からの介入は制限される。そこでの記憶も、なかったことになる。来ヶ谷さんだけは、もともとクラスメートでもなく同じ学校の人でもないため(同じ学校ではあるかもしれない)、バスに乗っていない。すなわちあの事故の惨状を知らない。現実に帰れば、ピアノを弾いている深窓の令嬢というわけだ。このように、明らかに来ヶ谷女史は恭介たちの「夢」の世界からはじかれているのだが、「夢」がリスタートするとまた、何事もなかったかのごとくクラスメートとして存在している。なぜ拒絶されないのか? なぜ必ずいるのか? 万能な恭介なら、来ヶ谷をここからはじけるのではなかったか? そうしない理由は・・・ひとつしかない。この世界を開始するためには、来ヶ谷さんが必要なのである。言い換えれば、この世界は文字通り、「来ヶ谷さんの夢」として、いつも必ず存在する。来ヶ谷さんとは、つまり「夢」の成立する絶対条件である。恭介はこの夢の絶対条件のことを正確には知らないが、来ヶ谷女史は「私の望んだ夢」だと言い切っている。一人だけ、存在する理由を持たないのにそこに必ず存在するのは、彼女こそが世界の存在の本来的な原因だからだと断言してよいだろう。来ヶ谷さんとの恋愛がこの世界の運行に支障をきたすということは、この世界の成立の根源に彼女の意識が大きく関わっていることを意味している。そういうキャラクターは他にはいない。どういう成り立ちでそうなっているのかはわからないまでも、彼女のなんらかの超自然的な力が、この「夢」の世界を支えていると考えてよいはずだ。
振り返ってみれば、恭介にはこの後、リアルな意味で不思議なことが起こったのではなかったか。リアルワールドにおける彼の時間遡行という抜け穴はなぜ存在したのか。都合のいいその理由を登場する誰かのサイキック以外に求めることはできない。ましてこの共時的幻想下で事実として原因を探るとき、来ヶ谷さん以外の誰に必然的な原因を求められよう。記憶になくとも、力を意識しなくても、来ヶ谷さんは現実世界に超自然的な介入をしているキーパーソンなのだ。彼女がまったくの外部から参加していること、それ自体は「夢」ではなくて「現実」である。そして翻ってみればそもそも、この説明のしようがないみんなの共有する「夢」の基体を現実的に提供しているのが彼女であることは、上のことから間接的に証明されたも同然なのだ。(「夢」の存在する根拠は必ず「現実」の中に求められなければならない。)
来ヶ谷唯湖が世界の無自覚な「神」であるとする理由とは、そういうことだ。
さて、来ヶ谷唯湖のこの特殊性をもとに、さらに「リトルバスターズ」後段に仕掛けられた構造的なトリックを解明してゆこう。
ヒロインを一巡し、鈴の二度目のバッドエンドを迎え、兄である恭介は計算外の展開に憔悴してゆく。ところがだ。恭介の不在という失望のさなかで、理樹は逆説的に自ら「リトルバスターズ」の神話を己の力で再現しようと誓い、信じられないような自立心をもって問題に立ち向かいはじめる。何もかもが今までと異なる、理樹を中心とした新たな伝説「リトルバスターズ」の章だ。それはrefrainにおいてはじめて始まる新たなシナリオ。そして、この最終章の後段に近づくにつれ、この繰り返す日常世界の不思議の核心へとドラマは一気に踏み込んでゆく。ようやく、隠蔽されていた事実が明るみになり、驚愕の現実的光景がリアルなものへとへと変わっていく。
修学旅行のバスが崖から転落したのだ。
そこには、直枝理樹と、彼のクラスメートが乗っていた。
自分のクラスにはなじめなかった三枝葉留佳も、こっそりまぎれこんでいた。
そして、二度目の修学旅行を体験しようとした棗恭介も、バスのどこかに潜んでいた。
バスはぐしゃぐしゃになり、燃料タンクには穴が開いた。
誰も動くことはできない。
燃料は漏れ出し、やがて引火。爆発が起こって、死が迫った。
その刹那の出来事なのか、あるいは死が訪れた後のことかはわからない。
恭介の最後の意識が叫び、これに共鳴する仲間たちの意識と交じり合った。
そして、まだ助かる見込みのある二人、理樹とすずの意識を招き入れて、みんなが出会った一学期の始まりから今までの期間を何度でも繰り返す、夢の世界を作り上げることにした。
彼らがやがて、現実に帰っていっても絶望しなくなるよう、強い心を育て上げる気持ちで。
この世に残すそれぞれの強い思いが、奇跡の時間を生んだともいえよう。
八人の意識が二人のまだ生きている意識を迎え入れて、合計十人の意識によってつくり上げられる「夢」の世界がスタートした。
ただし、世界をスタートさせた八つの魂のうちの一つは、来ヶ谷唯湖という、現実の事故の場にはいなかった外部の少女のものだった。なので、彼女は「夢」の中でも終始、傍観者のスタンスを崩さないでいようとするが、「夢」の整合性を保つためにクラスメートの役割を演じ続けることになる。これに関しては、メンバー全員の記憶操作が行われている。もしこの操作がなんらかのはずみで解除されることがあれば、みんなは来ヶ谷唯湖というクラスメートのことを忘れてしまう。声が聞こえなくなる。姿も見えなくなる。そもそもそんな人物は初めからいなかったという本当の記憶を取り戻すことになるのである。
事実として表記されているのは以上のようなところだが、ここから類推するに、バスの燃料爆発は「既に起こったこと」である。爆発、そして死。ここから世界がスタートしている。
恭介は、自分がもう助からないことを知っている。既に死んでいるか、死に行く存在だからだ。それは、他のメンバーも同じだった。しかし、愛する妹の棗鈴と、弟のように可愛がってきた直枝理樹の二人だけは、爆発が起こらなければ生き残ることができるのだと気づく。事故のさなか、雅人と謙吾が身を挺して、二人の身をかばっていたからだ。傷の浅い二人は、立ち上がってそこから逃げる事さえできれば、助かる道があったのだ。
ここで、恭介の身には二つの奇跡が起こっている。彼は、爆発の起こる少し前の時間に戻る「抜け道」を発見し、そこで「現実」の世界に目覚めなおす。時そのものを巻き戻すこの抜け道がどうして存在したのか、なぜそんなチャンスが彼に与えられたのかは、お話の中で描かれていない。だが、推測するに、彼とその仲間の惨状を知る「神の視点を持つ者」が、「夢」の力を介してそこに奇跡をもたらしたのだといえよう。死という結果からスタートし、死の僅か手前の時間からやり直して愛するものたちの命を救う。その願いは、恭介のこの世に残した強い未練であり、あるいは命を懸けた自らへの嘱望だった。彼はそれを「この世での最後の仕事」だと言っている。バスの事故そのものは防げなくても、その後の大爆発がなければ救われる命があったことを、彼は知っていたのである。
全ては、既に起こってしまった結果から始まっている。そして、恭介に与えられたチャンスも万能のものではない。瀕死の彼が意識を失わずに爆発の原因箇所まで這いずっていき穴を塞ぐまでの、長い長い戦いの時間が始まる。目的をやりとげずに途中で眠ってしまうと、彼のこの努力も巻き戻ってしまう。彼が死んだ、「結果」の位置に戻ってきてしまう。やがて、気の遠くなるような戦いの末に、ようやく燃料の漏れ出している位置にたどり着いた彼は制服の上着でタンクの穴をふさぎ、背中でもたれかかるのだが、ここで自分がまた眠ってしまえばこの瀕死の努力もなかったことになってしまうという必然的事実に気がつき愕然とする。彼が爆発で死んだという事実を書き換えるためには、今この場所で自ら命を絶つことによって死という「結果」の位置を変えてしまうより方法がないと気がつくのである。恭介は、ガラスの破片を握り締め、最後の精神力で胸を貫く。
二つ目の奇跡はまさしく、「夢」の世界の創出にある。恭介の意識の呼びかけに応じて、死を迎えつつまだこの世に強い未練を残すものたちの意識が共鳴を起こして集まってくる。そして、繰り返す学園生活の「夢」を意識内共同世界として作り上げてしまう。その世界への参加の動機はそれぞれ異なったものだったかもしれない。あるものは、残してきてしまったイマジナリーフレンドにまた会うために。あるものは、記憶のそこに閉じ込めてきてしまった兄の存在を思い出すために。あるものは、拒絶したまま置いてきてしまった妹と和解するために。あるものは故郷に残してきてしまった両親に会いたくて。それぞれの思いを抱きつつ、これらの喪失を取り戻すために、この世界に参加する。この世に遣り残してきたことへの思いがあまりにも強すぎて、まだこのままでは死ねないと感じたものたちの末世の意識が恭介の下に統合され、共同主観幻想としてほころびのない強固な学園生活の空想体を作り上げてしまうのだ。この、奇跡の意識統合のプロセスにおいても、間違いなく「神」が介在している。超越的力によって、世界を破れ目のないきわめて完全な存在にまでかためているのだ。「神」の動揺がなくば、そこはまったく現実の世界と変わりのない、パーフェクトリアルであったはずなのだが‥
その後どうなったか?
恭介の願いは理樹の下に届き、理樹は自分で「リトルバスターズ」を再結成して、恭介その人に手を差し伸べてきた。もう、これで、大丈夫だ。恭介が頼もしい後輩の手を取ったとき、「夢」は存在の目的を完遂し、やがて終焉を迎える。「夢」の終わり、それは大好きな友との永遠の別れのときだ。全てはこのときを迎えるためのミッションだったのだ。「ミッションコンプリート」と叫ぶ、恭介の穏やかな顔が見えるようだ。
そして。
理樹と鈴は、恭介が書き換えた爆発寸前の現実世界へ帰還する。立ち止まっている暇はない。二人は互いを支えあいながら、後ろを振り向かずに駆け抜け、そしてみんなの願いどおり助かったのだ。二人だけが生き延びた。二人だけで生きる強さ。二人だけでも生きていける強さ。二人だけになった世界を受容できる心。これが、『リトルバスターズ!』という作品のテーマ性の根幹であり、麻枝准の用意した究極のシナリオである。麻枝文学が問い続ける、非業な現実の受容、そこへ立ち向かう人間の強さ、精神的自立の物語。その一点に彼のこれまでの全てのストーリーは収斂していくのであり、今まで何度となく繰り返し問い続けられてきた氏独特の強烈にシニカルなテーマであったといえよう。つまるところ『リトルバスターズ!』の本来の姿はここで完結することが正しく、たとえば、『智代アフター』を上梓した頃の麻枝氏であれば、この位置でエンディングを迎えて物語りは静かに終わったはずであるのだが・・・いじわるな「神」は、この期に及んでもう一度選択を問いかける。
「これでいいか、いやよくないのか。」
それは、物語の枠組み、形而を超えた選択枝であり、後者を選べば、これまでのストーリーの全て、強く生きようとした主人公の懸命の努力と決意、はたまた恭介やみんなの願いをまるごと否定するものになる。本来呪われた選択肢であるべきはずなのだが・・・。
しかし、やはり多くの人たちはこちらを見てしまうだろう。
来ヶ谷唯湖の、「夢」再び。
epilogue
解答 14 人中 yes= 12 人 no= 2 人