『智代アフター』発売にふれて
瀬川あおい
『CLANNAD』発表から、約一年半。智代に関するストーリーの続編として『智代アフター』が、ようやく2005年末に発表された。『CLANNAD』がそれなりに完成度の高い作品であったので、今回の続編は、企画者である麻枝准氏が特に気に入っている「智代」というキャラクターについて、もう少しだけ書き進めて掘り下げてみることが目標であったとアナウンスされている。同時に「一般向け作品」として発表された『CLANNAD』に対して、今度は「18禁作品」としてファンサービスすることが目指されていたようだ。KEY自身、今でも成年向け表現というものを否定するスタンスではないことがこれでわかる。また、『CLANNAD』の企画がかつて途中で一般向けに変更されたことへの、一部のファン内部での戸惑いや怒りへの一つの答えとして、今回の作品が誠意をもって提供されたことは否めない。(ふたを開けてみたら18禁作品でなかったことに対しては、ファンの間で不買い運動まで展開されていた。)つまり『智代アフター』は麻枝氏による、個人的なKEY作品ファンへのサービスフォローとして作られた。ただ、他メーカーのような「ファンディスク」として限定的に提供するにはあまりに容量が大きくてもったいなく、配布する場への影響も大変大きいことが予想されたので、独立したパッケージタイトルとして本編と同じ市場への流通が行われたと考えられる。同様に、ファン向けのおまけシナリオ本として『光り見守る坂道で』というビジュアルブックも同じ日に発行された。こちらも麻枝氏の文章が圧倒的に内容の大半を占めるのだが、どれも『CLANNAD』という作品のアウトサイドストーリーとして、質の高いショートストーリーが提供されている。いわば、作者自らによる「同人誌」的作品が、本ゲームと本書籍であると言ってみてもよいだろう。それらがいわゆるコミケという市場ではなく、きちんとした商業流通を経たことは、一般への入手しやすさの保証としては、正しいことだったと僕は考えている。ただ、非常に完成度の高い力作である『CLANNAD』のことを思うと、ほとんど本編ゲーム本体に匹敵する価格づけでおまけ追加シナリオと呼ぶべきものが流通にのったことは、今回自分自身をも、購入をかなりためらわせる用件になったのは偽らざる事実だ。まぁ、最終的には思い切って「虎の穴」のレジに立ったわけだが(おまけの智代タオルに心惹かれてしまった)、そういう意味では、本当にそれがほしい人のためのプレミアムな世界だったと言えるだろう……。
元々企画・脚本家の個人的趣味で作られた側面が大きいので、独立した商品として考えると『智代アフター』は弱い。何しろ『CLANNAD』があの異常なまでのボリュームだったのだ。『智代アフター』は、本当に『CLANNAD』の古河渚アフターストーリーと変わらないぐらいの時間(か、それ以下)で終わってしまう。厳密に言えば、本来、『CLANNAD』発表時にゲーム本体の一部として智代ストーリーの中に組み込まれているべきシナリオだったのであり、そうした点で、これだけの待ち時間の上に鳴り物入りで発表された割にはほとんどあっけない印象で終わってしまったことは否めない。正直、もっとしっかりしたものを提供してくれることを期待していたが、麻枝氏単独ではやはり若干独りよがりにストーリーが進んでしまう傾向があるようだ。元々この人は、パワーがかかる部分では異様にシナリオサイズがふくれあがり、表現もこれでもかーっと拷問に近いぐらいくどくなる一方で、パワーがかからない部分では重要な局面であっても気が抜けるほどあっさり素通りしてしまう。良くも悪くも元々、バランスを持った書き手ではない。想像するにたぶん『智代アフターストーリー』ラスト付近では、ほとんどのプレイヤーがお話しにおいていかれる感覚を味わったのではないだろうか。世界が、本当にすばらしく美しいものであることをより深く実感させるには、終盤戦でいささか紙数が足りなかった印象だ。印象的な音楽の力による叙情性は認めるが、やはり雰囲気や気分的なものだけでは表現として乗り越えられない、活字の不安定さ的なものがある。(特にコンピューター文字のモノローグの部分…。)作者のメッセージ性が鮮烈であるだけに、そこへ至る道筋を本当はもっと丁寧に語っていかなければ、受け手の共感は得にくいものなのではないか。あるいは、今回、『智代アフター』と銘打つ智代主体のストーリーであるにもかかわらず、ゲーム中、智代自身のカゲが非常に薄い。特に「とも」が絡んでいるシーンでは、智代はほとんどいいとこなしで、その才能や力、存在感や母のような優しさ、強さというものをほとんど発揮できていない。ただ弱い女として、情に弱い「とも」の姉であり続ける。そうした意味で『智代アフター』−−−これは失敗とは言わないまでも、より強くファンを智代というキャラクターに結びつけ、心酔し満足させるだけのパワーは持ち得なかったというのが正直な感想である。もしもこれが、『CLANNAD』本編の中に組み込まれている後日ストーリーであったならば、バランス的に何の問題もなかったのであろうが……。
ただ、僕個人としては、『CLANNAD』に関しても傑作とはとても思えず、特にメインヒロインである渚がどうしても好きにはなれなかった。一方、『CLANNAD』の印象として、このようなコピーをプレイ中ずっと心に抱いていた。
「母のような後輩、娘のような先輩・・・」
言うまでもないが、まるで娘を激励するような渚シナリオに対して、主人公の亡き母親を代弁するかのごとく力強い牽引力を持ったキャラクター、智代こそが、メインヒロインへの「対局」として心に強く印象づけられたのである。そうした見方でいくと、この二人が『CLANNAD』におけるダブルヒロインとして主軸に据えられていて、それぞれへの関わり方で主人公朋也の人生も大きく左右に変化していくような構造になっていると思われた。元々どちらが宿命づけられた彼のおおいなる運命か、ということではなく、そのどちらもが、朋也に生まれつき与えられた人生の悲しい軌路であるという、逃れられない大きなくくりになっていた感じがする。そのくらい、智代の印象は渚に匹敵し、むしろそれ以上に強かった。そして、僕が本作品で一番魅力を感じ、好きになったキャラクターも智代だった。そうした理由から、一年前某雑誌上で麻枝氏自身が「智代が一番好き」だとコメントしていて、「智代のアフターストーリーは是非書きたい」と宣言していたことは大変うれしく、また相当な期待を持って時の訪れるのを待っていたのだ。だから、今回の作品『智代アフター』に関しては、その内容の満足度如何にかかわらず、そうした作者の愛が現実の形でこうして商品として手にすることができたこの幸福自体、歓迎する気持ちでいっぱいなのも事実だ。紛れもなく、僕は「麻枝准」と、『CLANNAD』のコアなファンなのである。今は、このゲームが無事世に出たことを、心から喜んでいる。あれから一年半を経ても、まだ、智代に触れられる幸せを心からかみしめている。
それにしても……智代というキャラクターは、なぜにこんなに悲しいのだろうか。どうして麻枝准というひとは、こんなに悲しい結末の話ばかり書くのだろうか。「家族の中で誰かが大病をする」という麻枝ジンクスは、ここでも、これでもかとばかりに襲いかかり不幸な精神的旅路が繰り広げられる。かつて智代は、壊れかかった「家族」の気持ちを取り戻そうと車に飛び込んだ弟の車いすを押して、病院への長い桜並木を何度も歩いた。今、彼女が新しい「家族」を手に入れたこのラストシーンでも、その傍らにあるのは車いすに乗った大切な人……。三年間の迷いの中でついに決心し、最愛の人を手術室に送った彼女は、結果的に一緒に長い時を過ごしてきた朋也を失ってしまうのだ。「結論から言うと、手術はうまくいかなかった。」ただ、「記憶を取り戻すという目的のうえでは成功したと言える。」として、「彼がひとこと発した言葉」・・『智代』の名を呼んだ記憶を救いに、前向きに生きようとする彼女だが、果たしてこのストーリーを素直に受け止められるだろうか? 「人生はすばらしい」という結論を、彼女が悲しみを乗り越えた証として、我々は素直に受け入れられるだろうか? そうした言葉と決意をもってしても、智代が本当に悲嘆に暮れていない証拠とはならないのだ。少なくともこれまでの話しを振り返ってみれば、智代という少女がそれほど強いひとであるという印象は得られない。並の人間よりも遙かに意志が強く、決然と自分の目的を目指す力を秘めた才気あふれる人物なのは認めるが、そういう彼女のうちにあって、表に出さない秘めたる悲しみを常に抱き続けていた日々のことを、僕たちは非常によく知っている。いや、あの冬の並木道での再会シーンでそれを眼前に知らしめられた。そして、強さと引き替えに失ったものの大きさをいつも後悔とともにかみしめながら生きている、そういうぎりぎりのひとだったということを、あの時あの場面でも切々と訴えかけられていた。あまりにも痛々しい、彼女の一途な初めての恋。そんな過去を背負った智代が、あの学生の日々の中で実現し得なかった二度と取り返せない時間を、懸命に今この場で追い求めているのだということが、このアフターストーリーではとてもよくわかるのだ。これからは、朋也のために生きよう。何よりも優先して、二人の人生のために生きよう。その中に、こんどこそは本当の「家族」としての幸せを求めていこう・・それを取り戻そうという、切実な彼女の生き方を、なにげなく書き綴られる前半部分の日常の幸せに満ちたストーリーの中に、ひしひしと感じてきたのだ。やっとここまで……たどり着いた。ようやく二人の時を……大切にすごす日々を、この手にした。それなのに……そんな平穏な日々は、けっして長くは続かなかったということ。まるで失い続けることが彼女の背負った定めであるかのように、最愛の人をやはり、今回も彼女は失う。失ってしまったのだ。夕日に向かって佇む、智代と車いすの朋也。その背にあるのは、幸福と静寂と哀愁。彼らの、おそらくは望まなかった意外な未来が、この作品のラストシーンとして提示された。こうして最後まで、智代の人生に関しては、それが痛々しい日々であった印象をぬぐえなかったのが、僕は残念でならない。まるで何かの呪いのように、彼女を襲う困難は、かくも痛く、つらく、長く、厳しい。それに耐える力を彼女が秘めている分だけ、なおも悲しみは募るのだ。強さと悲しさの同居こそが、智代という人物の根幹であり、宿命だった。
おそらく作者は、智代というひとに対してとても大きな役割を要求しているのだろう。それは彼女や、彼女の家族という狭い枠にとどまらない。かつて智代は、校門から上る桜並木を残したいという至極個人的な目的のために、生徒会長に立候補し、当選した。それは智代なりの弟との思い出を守るための行動と言えたが、彼女を取り巻く環境はそれだけにはとどまらなかった。生徒会の誰しもが彼女の存在を求め、けして一人でいることをゆるさなくなっていったのだ。つまり、多くの人達に心から頼られる存在になった。頼りにされればされるほど彼女の身辺は忙しくなり、またその立場に気を遣う人達も現れて、朋也とつきあっていることを問題視する風潮も流れた。そうした事情をふまえて、朋也は彼女と別れることを決意する。智代は、そんなことを気にする必要はないのだと主張したが、最終的には朋也の気持ちを汲んで、黙って彼を見送ったのだ。智代は、その後も学校行事の運営に精力的に取り組み、生徒の遅刻撲滅運動の先陣を切り、やがて伝説の生徒会長と呼ばれる迄の存在となってゆく……
こうした過去の事情を今思い返してみると、やはり智代とは彼女だけの体ではない、ということだ。本人はそうなることを望んでいるわけではないが、誰もが彼女を指導者として認めている。それは、人を束ねる「力」。人を納得させる「力」。人を動かす「力」だ。喧嘩にあけくれた時から彼女には少女離れした腕っ節の強さがあったが、それ以上にこうした日の当たる場面での、集団を組織し命令を発して行動させる正しい方向の力が備わっていることが判明した。そこに人が信頼をもって集まるごとに、自ずと彼女には相応の自覚と役割が発生していくのだ。それは誰しもが平等に備える才能ではない。リーダーとしての要件を生まれつき備えた者にのみ認められる、特別な人的要請なのだ。良くも悪くも人は、社会的存在である限り、智代のような人物を必要とするものだ。
八ヶ月後、朋也と再会し、再びつきあうことを約束した彼女は、その後の時間を彼のために使ってきた。そうすることは女としての幸せを彼女に与え、家庭的な安らぎの日々を供したように見えたが、彼女の本来の能力は発揮する場所を失った。彼女の人生は守りに入っていくが、しかし、同時に彼女の人間的弱さが目立つようになる。皮肉なものだが、智代は、愛する者と共にいるときが一番弱い。それを求めるが故に、失うことのこわさに勝てなくなっていくのだ。そして、小さな幸せの内部に萎縮し、本当の力を出せなくなってゆく。それはとても、残念なことだ。はっきりいえば、朋也と一緒の時の智代は、一番智代らしくない時だったと言えるのだ。智代アフターの前半ストーリーでの納得のいかなさとは、きっとそういうことだろう。智代は、もっと広い世界で活躍できる人なのだ。いや、世界の中に飛び出すべき、それを約束された人間なのだ。
こうして、作者の願いは智代に、広い世の中へ目を向けることを要求する。パソコン通信で人の相談に乗るエピソードもその一つだが、何よりも朋也に対して限定的に向かっていた愛を外の世界へ解放することを望んだのではなかったか。従って、智代にはより大きな試練がやってくる。自分がいかに絶望し、しかしながらどのようにしてその絶望から立ち直ったかを人々に話してゆくために、彼女はより強く大きくなることを望まれたのだと言えよう。終盤のエピソードに関しては、そういう期待が多分に込められていると思ったのだ。従ってそのまなざしと語りは、最終的に朋也の方だけを向いているのではなくなっていた。この世界の地平の外へ向けてまで、自分の人生でつかんだものを伝えようとする、まだ見ぬ他人へのこころづくしの励ましの言葉になりえたのだ。それは、智代というキャラクターに対しての、麻枝氏的期待と願いのこめられた厳しい言令だったのだろう。願い通り見事、智代はそこに立っていた。朋也の傍ら、自分の力で毅然と立っていた。
そして、ここでも夕日が現れる。麻枝氏の表現の定番中の定番である、夕日の美しさ。たぶん、なにげなくすごしていたら、こんな美しさには気がつかずに通り過ぎてしまったに違いない。けれども今、困難の日々を乗り越えて彼と二人だけで見る夕日は、世界がこんなにも美しいものであることと人生がかくも素晴らしいものであることを、まぎれもなく感じさせてくれたのだ。その時、智代は生きることの崇高なる高みへと到達していた。どんなに悲しくても、その悲しさを知ればこそたどり着くことのできた一つの人生の諦念であると言えた。この境地を、作者は求めたのだ。麻枝脚本に現れる夕日とは、常にどの作品に於いてもこの、人との愛で染め上げられる情感の美しさでもって表現されてきた。風景に集約されるのは、本当はその人の心情の美なのだ。その人自身のこころの美しさが、世界をなにものにもかえがたいあかね色の「絆」に染め上げてゆくのだ。
だからどんなに悲しい話しでも、本当は智代の最後の言葉を信じて、祝福すべき立場に我々は立たされているのだと言えるだろう。納得を超えた、人生の神髄として、智代は画面を越え、我々自身に向かって直接、話しかけてくる。「アフター」とはそういう、メタスピリチュアルな、智代の心情を通して語られる、生きることをうたった「言葉」の物語であった。
ところで、この『智代アフター』の中で、特に斬新な設定と言えたのは、脳に障害を負った朋也が、一週間から十日というサイクルで繰り返し記憶喪失になるという、たぐいまれな症例の部分だ。たぶん、映画や小説には同じような設定の話しがいくつかあると思うのだが、僕自身はこういうのは初めてだった。だから、朋也が覚醒して記憶喪失になっていることが明らかになったとき、まさかこの状態が三年間、7日から10日のサイクルで数限りなく繰り返されてきたという事実にまで、当初は思い至らなかった。だから、智代からその事実が明るみにされたときは、朋也と同様に至極驚いたのだ。なるほど、ここでも麻枝氏のストーリーの理論的骨格、「繰り返す日常」と「そのたびに失われる記憶」の構造が持ち込まれるのか! しかも今回はその設定が、非常に具体的に提示されている。記憶喪失を周期的に繰り返すことが、それまで幻想でしかなかった麻枝的世界観に具体的な事例を与えたのだ。現実にそういう事態が起こりえることを見せられたとき、『ONE』以来抱いてきた非日常的幻想の骨格が見えた気がした。これまでの麻枝幻想風景に対して一つの具体を提示し得たと言っても過言ではないだろう。今回の朋也の症状が、例えば病床で『夢』を繰り返す患者の意識内風景と置き換えれば、「えいえん」の世界への疑問なども具体的にとけるはずだ。これは麻枝文学の常套であり、氏の今までの作品にとっての決定的な解答を意味するものだと僕は思っている。
朋也は目覚める。しかし、智代や、彼女と出会った高校時代の記憶を丸ごと失っている。彼は、中学時代のバスケに打ち込んでいた幸せだった頃の自分に完全に戻ってしまっていて、たとえば父親と喧嘩になって肩を壊したことや、そのせいでバスケが続けられなくなり、せっかくスポーツ優待で高校に進学しながら自分に目的を見いだせずに自堕落な生活を送り続けた頃の記憶一切を喪失していた。まるでそんな日々はなかったのごとく、その時、朋也の心は中学生そのものだった。ただ、彼の肉体的風貌は明らかに二十歳の青年のものであり、鏡を覗いたとき、本人はそのギャップにたいへんなショックを受けるのだ。そして、目の前でかいがいしく世話を焼く、美しい年上の女性に、恥ずかしさと親愛の情の両方をまぜこぜに感じていく……彼女は、自分が朋也「少年」の恋人だと言った。この奇妙な邂逅が、その世界での朋也と智代のはじめての出会いだ。今までのストーリーがもしも夢だったのなら、二人の関係は出会ったばかりの中学生男子と六歳年上の女性、ということになる。
問題は、その、新しい出会いの中で、朋也がもう一度智代のことを好きだと言えるかどうかにかかっていた。つまりそれは、何度新たに出会ったとしても、朋也が智代のことを変わらずに愛せるか? という設問を意味した。朋也は、智代と過ごすあらゆる記憶回復の努力もむなしく、過去の自分を取り戻すことは最後までできなかったが、しかし一つだけ彼女に答えを出した。「好きだ」という言葉。それだけは、あの、二人が幸せだった時の気持ちと変わらぬものであった。このひとことが、智代を救う。そして話す。朋也が記憶を失った状態で目覚めたのはこれが最初ではないということ。彼は、わずか一週間程度の間しか記憶を保つことができないのだということ。そしていずれ昏睡して、また元の記憶喪失に戻ってしまうということ。目覚めたその後のことは全て忘れてしまうのだということ。そんな日々がこれまで何度も何度も繰り返されてきたということ。実に三年間も、智代は、そうした朋也の症状に付き添いながら、それでもあきらめずに彼が何かを思い出すきっかけをつかむため、あらゆる思い出の地を回り続けてきたということを。・・・それは驚くべき真実だった。だが、今回の目覚めがただ一つ違ったのだとすれば、それは、二人の「絆」が明らかにされたこと。どんなに記憶を失っても、朋也は智代のことをまた好きになる。その言葉が聞けたとき、智代はようやく、自分がどうすべきかを悟った。たとえ最愛の人を失う結果になろうとも、今、二人の間に証明された愛の絆が永遠のものだと信ずる強さを得たのである。
このストーリーの構造性は、まさしく麻枝脚本の神髄を得ている。記憶喪失の朋也の物語は、そのまま、『ONE』における「えいえん」の繰り返す日常の物語から、全く変わっていない。テーマは人と人との絆。二人が同じ世界を繰り返しながら、その中でお互いの関係をどのように切り結ぶのか。そして最後に、どう愛せるのかが問われている。互いの愛情を信ずる心に「永遠」を確証し得たとき、はじめてこの無限循環を抜け出すきっかけを得るのだ。それは、全てが変わりゆくこの地上の世界の中で、たった一つの変わらぬものを見つける、人の心にのみ許された「えいえん」の幻想である。幻想が真実に変わるとき、人は人としてもっとも「強く」なれるのだ。それが、これまでの作品を通じて何度でも何度でもしつこいほど繰り返される麻枝文学の、決定的な解答であり究極のテーマであったと言えよう。ここでは、朋也と智代が「家族」となることで、作者の願いと信仰が結実した。互いの薬指にはめられたリングが、その象徴的意味合いを担っている。そう、ことここにおいては『CLANNAD』の最終テーマが導き出されたとも言えるのだ。それは限りない、二人の男女の信頼と絆の証を意味していた。人生の光り輝く宝物だった。IT'S
A WINDERFUL LIFE !
世界を美しくするのは、いつだってそれを眺める「人」のちからなのだ。
三年間……。実に1000日以上の日々。まったく同じことを繰り返す日々。一週間で割れば、実に150回以上の繰り返される落胆と悲しみの日々。それを淡々と繰り返してきた智代の生き様。かれが目覚めるごとに、それを「記念日」として手帳につづってきたペンの記録。それは、とてもつらく、単調な日常の繰り返しの中で、取り戻そうとする二人の思い出。二人の記念日。二人が出会えた日の、「記念日」。廊下ではじめて出会ったあの日と同じ二人の……
「好きだ」という言葉をもらえたときの、智代の心の脈動。はじめてその言葉を聞けたうれしさ。それはあの日の二人と同じ、はじめての言葉……
術語、集中治療室ではじめて朋也が口にした声。目覚めて最初に、こちらから教えることなく自分の名前を呼んで言ってもらえた、よろこび。記憶を取り戻した証。二人の思い出がこれから、ずっと失われることのない証……
そして、素晴らしい夕焼けの前で、「おまえのおかげで本当にいい人生だった」と、まどろみながら夢うつつに聞かされた、感謝の言葉。胸一杯の、世界への賞賛……
それら、朋也と過ごした日々の中の、どの思い出もが智代の心を躍らせ、人生の素晴らしさを彼女に教えた。二人のかけがえのない時間を与えてくれた、この世界の全てに感謝しながら、智代はこれから自分のつかみ得た宝ものを胸に、より多くの人々の救済に旅立つだろう。
物語は、そうだね。まだ、はじまったばかりだ。
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