[ レディ!]


〜リンちゃんの物語って何だったの?〜



『レディ レディ !!』
 昭和62年秋の番組改変期に乗じて、突如、東映少女向けアニメが復活する! タイトルは「レディレデイ!!」。かつて「レディジョ―ジィ」なる番組が有ったが、とにかくその路線の話しであり、多くの人はタイトルからビッグメジャ―「キャンディキャンディ」を連想したらしい。この番組の直前に先行していたのは、ちなみに「炎のアルペンロ―ゼ」であったが、筆者の地方では放映が無かった為ビデオでちらりと見ただけの記憶で語ると、ドラマがかなりシリアスで複雑だった為対象年齢がかなり高く、限定されたファン層しかつかみえなかっただろうと想像する。折しも少女アニメ界は「ぴえろ魔法少女シリ―ズ」というキワメツケの存在を失い、まさに超低迷期を迎えていたのである。だから推そらくは、レディレディの企画というものがこうした時代背景をにらんで具に設定されたのではないかと勝手に推測したとしても、あながち間違いではなかろう。これは完全な復古調少女アニメを志していたのだ。対象は主人公と同年代の、真の少女達である。そうした形で、新しいファン層を産出しようと試みたのだ。
 概してこの手のアニメというのは、女の子の「あこがれ」を具体的に視角化するのを目的としている。舞台はだから、生活感の薄い異国であると都合が良い。大時代的雰囲気の中で、大きなお城が出てきたり、素敵な舞踏会のシ―ンがあったり、美しい飾りや宝石やドレスに身を包んだお姫様が登場したり、白馬に乗った王子様が現れたり……という具合に、限り無くきらびやかな非日常的営為を目的としているのである。絶対に手の届かない夢の世界をイメ―ジし、フィクションの中に固定することで、あこがれの世界を象徴的体験によって具現化することこそが、このシリ―ズに課せられる戦略的目論見であろう。そうすることによって少女の夢を触発し、あるいはイメ―ジのヒントを与えることによって、物語世界の日常侵略が始まり、玩具が売れるという図式である。そこにはドラマの主人公とそれを視る子供とのフィクショナルを通じた「同化」が、ある。
 ところがここで一つ留意しなくてはならないのは、その同化が単純に純粋なあこがれを呈示しただけでは進まないということである。元々画面の向こうに起こっていることは、現実的日本の日常とはあまりにかけ離れた別世界であり、単純な心理でその中に入り込むことは普通にはできないし、むしろ「夢」の中の主人公に対し、ねたみや嫉妬を感じないとも限らない。つまり「夢」を眼前にぶら下げておくだけでは、日常人の「共感」は得られないのである。それではどうするのか? ―――主人公をいじめるのだ。精神的レベルで徹底的にいじめていじめていじめ抜くことにより、視聴者の同情的心理を引きつける。「いじめ」という生活感のあるリアリズムを介して、本来めぐまれぬ大衆人達の心をブラウン管内部にとりこみ、そこでようやく主人公との同化を完了するのである。後は、ドラマが好転し、悪が叩かれ、視る者との精神的合体を為した主人公が幸福になることで、一切のフラストレ―ションは解放される。画面に配置されたキラビヤカなドレスと宝石と王子様が、ドラマを追っていた子供達のものとなる。同化の産み出した幻想は、リアルタイムに提供されるところのデパ―トの玩具の売 上げ上昇に荷担し、綿密に仕組まれた経済原理と利害関係の点で一致する。これが、TVアニメの成立の構図である。ところで、この手法は精神的にも物質的にもめぐまれぬ子供達に対して効果がある。反対に、ある程度めぐまれた環境下にある子供達については効力が薄い。主人公の苦悩の理由がわからぬ世代には、かえって離反を招くものである。あるいは持ち出される「不幸」が日常のレベルを逸脱するようなものならば、とうてい理解には及ぶまい。東映少女アニメ路線が没落し、今「まる子」が世代を越えてうける要因はそこにある。
 とにかく、リン・ラッセルは日本で生まれ育った純真無垢な娘だが、複雑な家庭事情によって英国へ渡り、そこで貴族階級の女性として「レディ」をめざす。日本の女の子という点で、視聴者への歩み寄りを見せているが、一方で「レディ」という観念を具体的に説明するのにはかなり苦労しているようだ。なにしろ目に見える形で「レディ」は画面に出て来ない。かつてそう呼ばれたはずの美鈴もセ―ラの母も、この世にはもう居ない。だから言葉だけが画面の空中を浮遊している。それは、既に失われた母の面影が事件ごとに幻となって浮かび上がり同語反復を繰り返す場面に、象徴的にあらわれていると言えるだろう。目標に具体性が無いのは、明らかに失敗である。観念だけで納得しうるほど視聴者は甘くない。
 それと、必要以上にしつような悪役達の容赦の無いいびり方が、画面から遊離してしまっているのもいただけない。ハッキリ言って、これ以上パタ―ン化させればギャグに転じてしまう。誇張された表現が悪いとは言わないが、行きすぎはかえってマイナスである。かくも必然性の無いいやがらせが毎回毎回続いて、しかもそこにほとんど救いが無いというのは、見てる者がまいってしまう。主人公がセ―ラと抱き合って泣いているだけでは、何ともナサケナイ。あるいは、じっと内にためて我慢しているリンの性格にも問題があるのだが、とにかくいじめの為のいじめとして、いじめそのものが目的化してしまった状況はまずい。確かに作り手の意図とはそういうことなのであろうが、物語の内部ではちゃんと他に理由が無ければならない。単にリンを追い出したいというんではなしに、追い出さなければ生きていかれないようなモ―ドリン達の状況をこそ、描くべきだったのである。さもなければトマスもメアリも単純に救いようのない、悪魔に魅入られた精神的異常者としてしか、誰の目にもうつりようがなかろう。
 あくまで結果論であるが、このシリ―ズはたった21話(2ク―ルに達しない!)で終わらざるをえなかった。短命こそが公的評価の結論であり、「レディレディ」はそれだけ不完全な作品であったということなのだ。同情すれば、あるいは時代性に合わなかったということも言えるかもしれない。現代という枠組みの中で、東映のパタ―ンは幼少年層の心理というものを完全に読み違えているのである。今や、こういった形にのこる明白ないじめというのは無くなっているのであって、もっと本質的な悩みが子供の心をむしばんでいる。そこに焦点を合わせなければ、有効な結果は現れてこないだろうと思う。とにかく、世代の共感なくして「受けいれられる」ことは絶対に不可能である。残念ながらリンちゃんの苦労は、圧倒的な同世代の少女達の共感を得るには至らなかったのである。

『ハロ―! レディ リン』
 確か昭和63年の5月に、このシリ―ズは何の前ぶれも無くイキナリ始まった。何一つ情報が無かったので、私は正直、「レディレディ」の再放送が早くもあるのかと思った程だ。第一、考えられないことに、キ―局が変わってTV東京系での放送となったことには、ある種の違和感を覚えた。一体こうした流れの背景にはどのようなカラクリが、あるいは局と東映側の製作上の取引があったのか、色々と想像すればキリが無いのだが、とにかくマイナ―な局に移ることでリンの物語は存命し続けたのである。そのことは是としよう。
 原作のことは良く知らないが、そもそも「レディレディ」という物語は相当大河性を帯びた作品になるはずだったのかもしれない。幼いリンが、ロンドンにやってきてから様々なう余曲折を経て成長し、本当のレディになるまでの長い長いスト―リ―。しかしながら放送打ち切り(だろう…)の憂き目に会った為、描ききれなかった残りの膨大な物語を何等かの形で続けて作品化するべく、異なる舞台へと身を転じたのではなかろうか。それでこのシリ―ズが、全く二つに分断されることになったと考えるのは、あながち邪推とも言えまい。とにかく二つのシリ―ズの間には、大きな時間的隔たり(少なくとも設定上5年は経っているハズ)がある他にも、「作り」そのものが大きく異なるのである。シリ―ズ構成の意図そのものが、そもそも根本的に切りかわっているとしか思えない。新シリ―ズで、リンの目標は具体的な物証的形「クレスト」として、設定された他、彼女にはやるべき事「乗馬」が与えられ、試合に勝つことこそ少女の幸福への道として、事象が収れんされていく。実はイキナリ、東映いじめ路線からスポ根へと変容をとげていたのだ。これは驚くべき転換であろう。「ハロ―!レディリ ン」とは、「レディレディ」という忌わしい過去をスッパリ捨て去って独自に歩みを進めた別世界なのである。演出方法の根本的な相違は、まるでそこにリンちゃんのパラレルワ―ルドを覗きこんでいるかのような不思議な感覚をもたらすのだ……。
 実は時間的な制約が有って、この場で「ハロ―!」シリ―ズについて多く語ることはできなかった。ドラマとしての出来は当然、圧倒的にこちらの方がいいのだが、その興奮を各話追って審議しているヒマが無いのは何ともはや惜しいという気持ちである。やはり財産狙いでソフィという少女が現れ、彼女の心が次第にリンの優しさにあらわれて素直な一少女へと変化してゆく様子、あるいは乗馬部キャプテンのビビアンがリンの才能と熱意と誠意に触れて冷たい偏見の氷を溶かしてゆく様、更には宿敵メアリが再び登場してリンをおとしいれ、レディクレストを我がものにしようとする過程等々、チェックしておきたい場面は山程ある。できれば誰か、私のかわりにどこかで発表していただきたい……もしそれがかなわぬならば、誰か私に「ハロ―!レディリン」を語る機会を与えてたもれ!! という気持ちだ。
 まぁそれはともかくとして、新シリ―ズの実質的な最終回は、リンが乗馬大会で優勝することと、おじい様に会えること、レディクレストを受賞すること、銀行の融資が出てマ―ブル館へ移り住めること、更にはママの遺品の箱を開けて髪飾りを見出だすこと等々、何もかもつめこみ過ぎであった。その上、ラストシ―ンはいきなりイメ―ジ世界に飛しょうして、お姫様のかっこうで視聴者に手をふってしまうのだから、それまでのシリアスな路線をズッパリ裁断している。なぜこのようにあわてふためいた展開になってしまったのか? ……という疑念がわくが、推そらくこの辺り、放映延長か打ち切りか? という攻防がかなりあったのではないかと思うのだ。結果として、最終回以後も総集編が4つも続くわけで、もし更にこの後新々シリ―ズが始まろうものなら、それこそミンキ―モモの再来となっていたことだろう。とにかくどうやらレデイリンの物語は、その成り立ちから終了まで、条件的に相当めぐまれぬ状況にあったようだ。
 「レディレディ!!」が全21話。「ハロ―!レディリン」が全38話…だが、うち6話分は総集編であるので、実質的には32話。両方足せば53話で、丁度一年分の一般的TVアニメシリ―ズの長さとなる。案外この辺りの数字が一つのコンセプトの限界というか、丁度いい長さなのかもしれない。しかしリンちゃんの物語は、その後意外な形で尾を引くのだ。  
 若干期間を空けて、翌春には葦プロ製作で「アイドル伝説えり子」が始まるのだが、この作品に引き継がれたイメ―ジの数々は、特記に値する。始め、私は「えり子」が「レディ」のパロディなのではないかと疑った程だ。主人公の髪型や性格、そして制服のデザインが妙に似通っているし、えり子の母親は良く見たらア―サ―の母と同じなのだ。それに、どちらも片親を交通事故で亡くす場面で第一話が始まる。「喪失感」が少女の生きる動機に結びつく構図は、完全なアナロジ―が形成されていると思う。セ―ラに相当するのは麗であり、両者の存在は一見かけ離れているかのように見えるが、実は主人公にとって先天的なライバルである点で同質のものである。ポジションの発現の仕方が異なるだけなのだ。レディとしてセ―ラが、歌手として麗が、同様に主人公より一歩先んじている様相を見つめて欲しい。更には、両者が「父親」の愛を二分している面も……。
 まぁ、そんな傍流の細々としたことはど―でも良い。とにかく「レディレディ」の流れというものは、「えり子」の中で生きていたし、その「えり子」は今、方法論上の援用という点で「よう子」に引き継がれているもの多数である。これらの少女アニメに通底する諸々のモチ―フを大きな流れとして、綿密に分析する作業もいつか必要かもしれない。  ―――継ぐ者は誰か? というテ―マで。

 といったところで拙い本稿を終えるが、ここで取り上げた細かい問題点については又いずれ何等かのかたちで書くことがあると思うので、もし見掛けましたらば宜しくデス。それでは最後に、
「誰か、もっとちゃんとしたリンちゃんマガジン出してくれ!!」
というわけで、おやすみなさい。

            瀬川あおい拝

 

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