『こどちゃ読本』テキスト全文
                  瀬川あおい


[こどものおもちゃ中学生篇]

【運命のシリーズを通じて、確固とした信頼と絆を築いたはずの紗南と羽山。
 しかし、風花のまごころと直澄君の存在感が、生まれかけの恋心を引き裂く…… 】

かえりみられるべき一年間

 こどものおもちゃの放送も、早いもので軽く一年を突破して、紗南ちゃん達も中学生になってしまった。まだ小六のこどもだと思って安心しているうちに、いつの間にか彼女達は成長していて、心も体つきも著しく変化していたことにあらためて気付かされる。成長期という言葉をどれほど身にしみて感じることか。六年三組の荒廃した教室でボス猿羽山の顔に色インクをぶちまけていた紗南ちゃんと、映画「水の館」のロケーションで、女優としての着実な第一歩を踏み出した紗南ちゃんは、それぞれ同じこどちゃの文脈上に位置しながら、同時に同一の人物とは思えない程異なったキャラクターである。漫然と一年以上に渡るシナリオを順繰りに眺めているうちに、気付かない所で少しずつ少しずつ彼女は変わっていったのだ。これまでいろいろな問題や事件に突き当たりながら、仲間たちと協調し、それらを突破してきた。大人の数倍の密度で人生の年輪を刻むこども達の精神牲にとって、一年というスパンはあまりにも長い、心の漂流の時間であったことだろう。その中で、傷つき、苦い味を知りながら、生きている自分をかみしめていったことを忘れられるものではない。すべての事象は、心の深層 に焼き込まれているのだ……何一つ無駄な体験は存在しない。悲しいことも嬉しいことも、涙も笑顔も、まるごと成長の糧として、こどもの身体性に取り込まれてゆく。友達の言葉と学んだ経験は、貪欲な吸収力を持った知性の辺縁にリンクされ、人格形成に一助を成す。かくして、蒙眛とした未分化な状態にあったこどもの心が、次第にパーソナライズされた人間性を獲得し、その人自身の指標である独立した個性を確立する様子は、一年という物語の厚みを我々に実感させずにはおかない。過去の情報が全てスタックされた所に今ある紗南が存在するということ、その後経験される様々な人生の局面に、これら心の内なる過去が密接に絡み、全人格的な意味を持ち得るところが、こどちゃにおけるキャラクターのリアリティであることは言うまでもないだろう。行動の一つ一つが全てに於いて理由を持っているのだ。状況に流されそうな時でも、思い出がフラッシュバックされ、積み上げて来た過去が再確認されることによって生きる意思を取り戻す。そういう仕方で人間が描き込まれているから、彼女たちの心情を理解し泣けるのだと思う。決してそれは大人達の世界における「過去を引きずった」行為なの ではなくて、人格形成におけるピュアな素材とこれに絡む自己同一性にたちかえることで、自らそのものを恢復する経過なのだ。真実は世界のどこにも存在しない。ただ、彼女達の歩いてきた、そうして今の彼女達を成り立たせている彼女達自身の心の中にのみ存在するんだということを、あらためて確認しておかなければならないと思う。心を読み解く鍵は、この一年のこどちゃの全プロセスの中にある。そういう形で作られている作品だと僕は思うのだ。

松井風花登場!!

 中学生篇最大のトピックは言うまでもなく、松井風花ちゃんの登場に尽きる。と同時にそれが、彼女の過去を知らない現キャラクター勢にとっては最大の外乱的要素を成すものであることは、言うまでもない。実際、風花という強烈な個性の登場は、主人公倉田紗南の座を猛然と揺るがす。何故なら彼女は、あまりにも紗南と似ているからだ。剛君の思考実験における髪形とっかえドッキング場面をひもとくまでもなく、顔の造作はほぼ同じと言っても良い。いや、似ているのは顔つきだけの話ではない。体型的にも近いし、同じ部活に所属してしまう面から言っても、何より二人の積極的な部分で一致をみるところ断然大である。うだうだうざったるいことはキライで、悩みもぱーっと発散して、スパッと竹を割ったがごとく生きる。この人生方針に於いて、風花と紗南の人間性が一致するところは大きい。他から見れば、それは気持ちのいい人間の具体であろう。当然のことながら似た者同士の彼女達は、トイレで初めて出会った時から意気投合して、アッという間に友達になってしまう。二人を引きつけるのは互いの近さであり、相手の心をつかみやすいという点に於いてだ。なにか他人と思えないとこ ろが、自己の鏡像として相手を見る興味のようなものに、すりかわっているのだと思う。だから気持ちを伝えるのに多くの言葉を必要としないし、初めから理解もされている。一目会った日からもうマブダチになれるのも、それが対象化された自分に他ならないからだろう。紗南はこれまでたくさんの友達を得てきたが、いずれもタイプとしては自分と異なる人達であった。おとなしい子、ハッキリした子、優しい子、賢い子、きつい子……類型的にみんな違うこども達であった。ところが偶然にも中学に入ったところで、大阪からやってきたチャキチャキのナニワっ子が、紗南のオヤジ肌な人間的ツボにすっぽりはまる近しいヤツだったのだ。これはただ偶然と呼ぶより他ないことだし、小学生の時からの付き合いの友人が風花に負けることを残念がってもあまり実りは無い。他のこどもは、これまで時間をかけて紗南の人間性を理解してはいるが、風花の存在はそれとまた次元が違うのである。彼女の場合は、初めから紗南と同一の精神的フィールドに居るのだ。したがって理解という過程を越えた、ある種の連帯感が原初的に存在するのだということは無視できない。そういうわけで、ふと気がつけば遠足の バスも隣りどうし、誰もが認める協力コンビになっていた。果たして、新キャラによるこういう展開を誰が予想し得たであろうか。というより、松井風花というキャラクターを打ち出して来たのは、倉田紗南の人間性をより鮮明に浮かび上がらせるための方策であったとしか思えない。風花という別人格の対置によって、そこに見られる紗南との微妙な違いを発見することにこそ、作者の意図は向けられているのではないかと想像できるのだ。いや、実際中学生篇の人間関係は紗南と風花の並列対置によってガラリと再編され、紗南をめぐる直澄・羽山関係に、強力に絡んでゆく。その中で風花と紗南が「似ていること」と「似ていないこと」の落差が重大な問題になっていくシーンは圧巻である。それは同時に、これまであいまいに進んできた紗南の恋愛心情を手繰る重要なポイントにもなる。果たして、紗南とはどういう子なのか。そして何を求めているのか。その辺を詳らかにしていかなくては、中学生篇の存在意義は確認できない。むしろだからそこでは、風花との微妙な人間的差違の方が、より注目されるべきテーマなのだ。



 小学生篇で描かれてきたのは、こども達が社会的に傷付いた存在であることの暴露であり、それを乗り越えるために互いに手を取り合い扶け合いながら逆境を生き抜く心のバイタリティーと絆であった。そうした視点で紗南と羽山との関係性は、互いを必要とする絶対性に導かれていた。そこまで追い込んでおきながら、むしろ意図的にないがしろにされたまま捨て置かれたのが、当然発展してゆくであろうお互いの恋愛感情というテーマなわけだ。確かに羽山少年の側からは積極的なアプローチが何度もあったことだし、紗南もそれを根本的に拒んでいなかったように思える。しかし、あくまで彼女の口から繰り返されるのは「天敵兼マブダチ」というフレーズで、羽山にとってみれば何の救いもない在り来たりな台詞。恋愛感情に至る手前で毅然と一線を引かれ、どうしてもその敷居を乗り越えられないもどかしさのようなものが少年の顔色にフツフツと浮かび上がっていたのは記憶に新しい。つまり、羽山の側としては気持ちがかなりハッキリしているということだ。むしろ問題の所在は、あいまいに自分の感情を流してごまかし続ける紗南の方にあるわけで、どうして彼女がどこまでもそういう態度を 崩さないのか疑問に思う面も無きにしも非ず。そうした形でおあづけを食い続ける狼羽山の屈折した立場に本来、笑いを取ることを狙っているのだとはわかるにしても、その手が通用するのは彼の気持ちが紗南の方を真っ直ぐ向いている間に限られてくる。いつまでも、それこそ永遠にこのままというわけにはゆくまい。どこかで波風が立たなければ、倉田紗南の側からの正式なリアクションは望めない格好になっていたと言えるのだ。
 紗南の心情を追う者としてみれば、動物園へ出かけた折に剛君が彼女と二人っきりになって「本気でそんなに鈍い? 秋人君の気持ち、全然伝わってないの?」と問い詰めた場面を見逃すわけにはいかない。紗南は告白している。自分は恋愛に自信が無いのだと。かつて本気で恋していると思い込んでいた玲君が、実は恋愛ごっこしてたんだとわかった時の恥ずかしさを、今でも忘れられないのだと。これは紗南の精神的不幸と言ってもいい。あれは明らかに引き裂かれた恋だった。玲君は、本気で紗南のことを思っていたし、彼女の力になることで自分の存在意義をようやく確立することのできる人だった。その心情に嘘は無いし、紗南が大人になって自分を捨てる日が来るまでは、形だけの恋人役を引き受けるつもりでいた。そういうのも一つの、男が女に持ち得る愛情の形だろう。一方紗南の方も、父親のいない寂しさと憧れのようなものが精神的に依存できる男性を求めていて、自然な形でかっこいい「自分だけのヒモ」にすがっていた。それはそれで、幼い彼女にとっての愛情のよりどころであり確認の場だったのだ。自分は愛されているのだ、という承認こそが玲君を通して求められていた。何時 でも側にすがりつける男性が居なければ、とても寂しかったのではないかと思う。だから、そんな彼女の異性に対する気持ちが丸ごと嘘だったとは、僕には思えない。彼を必要としていて精神的に依存する限り、それは彼女なりの初恋であったと認めてもいいように思う。しかし、紗南の恋は壊れた。玲君の本当の気持ちはわからぬまま、彼を来海麻子さんに引き渡してしまった。こうして失ったもの。あるいは、それまで本物だと信じてきたものが揺らいだ時、紗南は恋愛感情に対する自己不信にとらわれることになる。何が真実なのか、人の心の見えにくさというものを知ってしまう。しかるに玲君の思いやりと優しさとは裏腹、紗南は自然な感情としてわき上がる恋心に不信を抱き、「好きになる理屈」を要請するようになってしまった。何か確証が無ければ、誰かにそれを保証してもらわなければ、恋を恋として認識することすらできない体になってしまった。というより、恋から逃げることが当面彼女にとっての対機的処置としてプログラムされたと考えてもいい。彼女は心をブロックすることで安全圏へ退避しようとしている。それ以上傷付かない為に。従って「恥ずかしさ」とは、彼女なり口に出し て言えた、恋愛に対する心の傷なのだと解釈することができる。羽山に対してわき上がる感情も、又あの恥ずかしさがよみがえることを恐れて、圧殺しようとしている現在の紗南がそこに居るのだ。
 「羽山は天敵兼マブダチ。今はそれでいい!」と、にこやかに笑ってみせる紗南のさわやかな笑顔に、剛君は戸惑う。僕も戸惑った。彼女がそうした思い込みで今という時間にインターバルを置きたいのならば、それでも良いのかと思う一瞬だ。しかし、それは「今」が永続的に引き継がれるという条件でのみ成立する言葉ではなかったか。彼女を取り巻く今は、常に変化の波頭にさらされているのだ。絆は絆として、しかしより大きな絆にのみ込まれていかないと誰が保証できよう。そして人の心の移り変わりなど、どうして阻止できるだろうか。今、そこに居て笑っている紗南自身が強烈に羽山の言葉を欲し、生きる活力になっていることを否定できるものではないし、むしろそうした好条件が永遠にこれからも続くのだと思っている彼女の心情にこそ問題がある。失われて困るならば、ちゃんと鍵を付けてしまっておかなければ、いつ泥棒猫がやって来るとも……いやいや、いつひょんなことでなくしてしまうとも知れない。そういった点で時間というものの認識の甘さを倉田紗南の発言に感じてしまうのは、僕だけではあるまい。今が永遠に続く人間などこの世には居ないのだ。
 「羽山の言葉はなんでもないようだけど、不思議と心にしみてくる。よし、やるぞー、という気力がみなぎってくる。」こうした台詞を聞いてみると、紗南はそれなりに自覚していると思うのだ。羽山の存在が確実に自分の生き方そのものに影響を与えているということを。それは、あの約束の夏の日に彼が言ってくれた言葉で自身が支えられているということも、フラッシュバックされる。絶対に必要なものなのに、彼の心そのものは置き去りにしたまま紗南が長期ロケーションに出かけてしまうのは、自らへの背信的裏切りであり罪悪だろう。もう、小学生の日々ではない二人がそこに居る。彼女は、彼女のことを内心好きな男の子と共に、遠くの世界へ行ってしまおうとしている。少年は、彼女に男として認めてもらう為始めた空手の昇段試験にからくも合格して、新しい茶帯を握り締め、出発のバスを見送りに来る。そのいじらしさ。言いたいことは一つだけだろう。けれど、そのたった一つのメッセージが伝わらなくて、過去も今も未来も苦しい日々は続くのだ。どんなに想いが募っても、たったひとことが言い出せないばかりに……。
 羽山自身、自分の気持ちを性格に相手に伝えることのできない自閉的性格に苦しんでいるはずだ。唯一紗南に対してだけはとつとつと自分を言葉にできるようになってきていたが、しかし肝心なことはどうしても表現できなくて彼なりに行動で表してきた。周りの人間はそういう秋人君の様子を見ていて、態度で示すやり方に理解を示していたし言葉よりも確かな心情を確認していたけれど、当の倉田紗南にはどういうわけかこれがまるで伝わらない。何かがかたくなにブロックされている感触。それが何であるのかを正確には知り得ないが、ただ拒否されているのでもなければ受け入れられているのでもないことだけは判然としている。このあいまいな状況にそれなりの疑問を持ち、困惑を禁じ得ない表情を彼はしばしば見せている。むしろ、より人間的なのは羽山であって、同情せざるを得ない面は多い。少なくともはっきり断られれば諦めもつくというのに、いつまでもヘビの生殺し状態では……辛いことこの上なかろう。
 石田君の告白へのその場しのぎの対応といい、やはり紗南はまだ恋愛感情においておさなすぎるのだ。剛君が恋愛オンチと評価するのも当然だろう。こういう場面で適当にごまかそうとするのは紗南の弱点であり、あるいはそういう女を好きになってしまった羽山少年の決定的な不幸と言い切れはしないか。結局、羽山へのあいまいな態度を保留し続けたことも、石田君の気持ちを断る為のでまかせも、後々紗南自身の首をしめることになるのはむしろ自業自得であり、考えてみれば当たり前な結果なのだ。今一度実紗子ママの言葉をひもとくならば、「あんたはみかけは大人っぽいけど、中身はまだこどもなのよ!」ピコピコハンマーびしばし、という感じなわけなのだね。 

風花と羽山

 さて、こうした紗南のハンパな状況に対し、前述の松井風花嬢が絡んできて物語は鳴動する。それ程彼女はキョーレツなキャラクターなのだ。そもそも保健室で仮眠を取っていた羽山をふんずかまえて「あんたぁー、羽山秋人っていうんか?」と詰問したかと思うと、いきなり平手をサイドワインダーでぶちかます(!)ところからして、何やら尋常ではない。目が点になる。あの秋人少年をぶっ叩ける女というのは今まで倉田紗南をおいて他に居なかったわけだが、いともあっさりなにげに手を下してしまうこの迫力はもはや、主人公のそれを軽く凌駕してしまったと言う他ない。さすがの羽山も完全に気負い負けしている気がする。次第に明らかになるのは、どうやらこの風花という女の子と羽山や剛君とは、幼稚園の時の顔見知りであったということ。つまり、つきあい(?)としては、紗南なんかとは比べ物にならないくらい古いということだ。そして、幼稚園の時にあの羽山がどうやら彼女に接吻ぶちかましたらしいということである。羽山キス魔事件に関しては、件の小学生篇で行われた紗南への二度に及ぶ凶行が記憶に新しいが、ぬわんと幼稚園時代にも破廉恥な行為をかましていたとはさすが 、もとい、とんでもないセクハラ少年。当時の仲間達もそれは良く覚えていたらしく、羽山のファーストキスが幼稚園の時というのは有名な話であったのだが、よもやその相手がこの大阪弁の強烈転入生松井風花だったとは……。驚きというか、相手がいくらなんでも悪かったと言うべきか、羽山ピーンチ! な状況はまぬがれない。いきおい彼女の怒りの告白に耳を傾けざるを得ないところだ。
 風花は前の学校でどうやら一悶着あって過去を断ち切ってきた女の子なのだ。一悶着とは、相思相愛の男の子がいたにもかかわらず、羽山とのファーストキスが噂に上ってしまいそれが原因でだめになってしまったらしいということ(話すヤツが悪いとも言える)。だからって幼稚園時代の仕業を今更とがめられ復讐されるなんて、羽山アッキーにしてみれば甚だ迷惑な話だ。思い込んだら命懸け、猪突盲進の脈絡ない風花の怒りの思考は倉田紗南にどことなく通じるところがあるとはいえ、あまりにも飛躍が過ぎる。しばしその場の全員が唖然、というところだろう。カレー食べてて、金と銀の絵の具のチューブをとぐろに絞り出された悪夢の記憶を思い出してしまうところもなかなかとんでもないヤツで、「松井おもしろ過ぎるぞ!」と風花ちゃんの人気もあなごのぼりである。ともあれ、今まで紗南ちゃんとぐらいしかあまり話もしなかった羽山少年が積極果敢にせめられおたおたと対応する様子はなかなか意味深で、この二人もどことなく底辺でつながっていそうな部分というのを想起させるのだ。断言するが、風花は一目見た時から羽山の存在を気にかけているし意識もしている。そして、「何や面 白い、つついて遊んだろうー」的な気持ちになるのも、彼のことが気に入っている証拠なのだ。風花は終始自分のペースで仕掛け、あまりの追及の激しさに羽山もびびりまくり、弾丸のようなつっこみにとりあえずぼけておかざるを得ない。その辺の二人の相性が、見ていて面白いと思う。ちょっとこういう表情の羽山も今までに見られなかったものだ。紗南のつっこみはそれなりにあしらっていた感があるが、風花のつっこみには彼女のナニワのノリについ合わせてしまう羽山の態度、これはこれでそれなりに悪くないと思うのである。というか、この二人の方が過去は古いし、幼稚園時代の因縁が面白い形で吹き出している。こどもの顔にかえってしまう羽山の様子は好感だし、内面的な部分で通じあっているところがかなりあると意識させるのだ。特に風花が羽山にウソんコ彼氏を頼み込み辺りに至って、この傾向は猛然と加速する。ウソの彼と呼ばれていてその反面、すっかり彼氏気取りになっている羽山少年の爆笑ぶりはちょっと筆舌に尽くしがたい。そしてこの彼氏ごっこではまっていったのは何を隠そう、風花自身であったというのも本当に笑ってしまうけど笑えない話だったりするのだ。こういう のもいいんじゃないかと思った時、なにか過去のこどちゃ物語が目指してきた筋道に決定的な亀裂が走ったかもしれない。どう判断して良いかわからないが、風花の前で見せる羽山の意外性もそれなりに彼の秘めたる内面であるし、少年の少年らしい優しい表情であることに間違いはないのだ。倉田紗南とぶつかり合っていた頃の、鋭利なトゲトゲしさが微塵もなくなっている。というよりトゲを出そうとした瞬間にもう、風花にぶったたかれることになるので、突っ張っている余裕はない。イニシアチブを彼女に預けてしまうことにより、羽山の人なつっこい別次元の感情性が現れる様子はちょっとすごみがあると思うが、しかしいずれにせよそれらは、紗南の前ではほとんど見せることのなかった顔。そのことに気付いてしまった時、何かが壊れる音がした。むしろ、少年が追い求めていた「母親」への慕情は、風花の面影の中にこそ相応するのではないかと、思い至ってしまったからである。

母性対決

 そもそも羽山が心を開くきっかけとなったのは、紗南が膝枕で寝かせてくれた公園での「お母さんごっこ」であった。羽山が懐柔した理由は、演技者としての紗南が母親の具体的イメージを少年の心に問い掛け、そして全ての母親というものがこどものことを愛しているから産んでくれるのだという台詞を聞かされたことにある。見たこともない母親という存在を少年は、少女の演技の中に感じ、自分もきっと母に愛されたこどもであったんだという内的証明を得たことで、それまでの屈折した愛情コンプレックスを克服して立ち直った。12年間の迷いから覚まされたその時、目の前に居た少女に初めて女の持つあたたかみを感じたとしても不思議ではない。羽山が紗南のことを好きになる直接的な原因は、明らかに女優倉田紗南の演技せる母親の中にあった。その膝の上で静かにまどろんだ時、彼の心は母の愛情というイメージの中で癒されたのだと思う。無論、紗南は羽山の本当の母親ではない。演技が解けた時、そこに立っているのはいつものガチャガチャとやかましいクラスメートの女の姿だ。しかし、どこかで母たるイメージを彷彿とさせるからこそ、どうしようもない位自分の気持ちがピンチに 陥った時、彼女に電話をしてすがったのであろうということが、羽山父入院事件を通して想像される。そうこうするうちにだんだんと倉田紗南当人のことが好きになってゆき、逆に彼女が本当に精神的危機を迎えた場面では、自分が彼女の力になってやりたいと思うようになれたのではなかろうか。
 風花が紗南と決定的に違うのは、彼女の場合、自然体で母性そのものなのだという点に尽きる。考えてもみて欲しい。倉田紗南は、料理をさせればあやしげな物を作るし、家の中はメチャメチャにしてしまうし、勉強の意欲なぞ微塵も感じさせない総じて怠惰な面があふれている。元気なだけが取り柄の、おおよそ家庭科とは無縁な女だ。ただしひとたびカメラの前に立てば、あるいは舞台の上に立つシチュエーションで、その類いまれなる演技力は圧倒的に人々を魅了し内に取り込む不思議なパワーを持つ。演技している時にこそ、彼女の存在と才能は輝くのだ。
 一方の風花はというと、これが才色兼備の典型的な日本の母たる印象を持っている。勝ち気な強さを含めて、性格のピシッとした所や堅実さ、ハッキリと人を叱る所、そして後々判明する勉強もスポーツも優秀で委員長も務める指導的な側面と、どこを取っても非の打ち所のない生活実感的な才女なのである。思わず、将来の良き母親としての姿を目に浮かべてしまうのは僕だけではあるまい。風花は演技などするべくもなく自然体で母親的なのだ。多分、羽山が猛然と彼女にくちごたえできないのも、一方的にしかられているのも世話を焼かれてしまうのも、男の子がお母さんに逆らえない理由に一致するものがあるのではなかろうか。知らず知らず、羽山は自分がかつてふれることのなかった女性の持つ母性を風花の中に見出しているのだと思う。そうした意味で、あまりにも彼にとって彼女は気持ちのいい未知なる憧れであったのではないかと、しばし想像したのである。無論、明示的にそれを語っているシーンはどこにも存在しないのだが。
 してみると倉田紗南を身近な存在に感じられなくなった羽山が、次第に風花の愛情に傾きかけるのもわかる気がする。彼にとってみれば、自分の最も弱い部分をついてくる女であるはずだ。牛乳こぼして「ほんまこどもやなぁー」と拭いてもらったりしながら、なんとなく彼は母親に保護されるこどもになりきっているのではなかろうか。そういった、日常に失われてきたものの恢復をみているのではなかろうか。みたところ羽山は、明らかに風花によって守られるべき存在になっている。世話を焼かれておとなしくしているこどものままの少年なのだ。そういう自分に、まだ反抗の芽は出ていない。紗南と接触していた頃には感じることのなかった、女性らしい気づかいや優しさに守られる形で、羽山は安らかに呼吸している。それが彼という、他人に噛み付く牙を持った少年に相応しい在り方かどうかは別にして、これも一つのカップルの形態というか、そのありようであることに間違いはない。本当に、いつ風花が「アッキー!」ではなく「あーちゃん」と呼び出すかとヒヤヒヤしているのだけど、風花自身アッキーの恋人というよりは代理母という感覚で居るのではないかと思わせるシーンは多数に上 る。それもこれも、一つの愛情の形として認めていって良いような安らかさにあふれていることを、否定のしようもない。
 こうした風花の先天的な面倒見の良さが、遠く離れて生活している倉田紗南の脅威となっても少しも不自然なことではなく、現に紗南と直澄の仲が決定的にあやしくなった時、「うちとつきあわへん?」という言葉は羽山を揺らした。強がって後ろ姿を見せる彼の歩がぴたりと止まる程に。仕掛けたのは風花の方だったが、むしろあの時の彼女の心境としてみれば、「あいつ(倉田)への気持ちに自信が無くなってきた。かまってくれるからなついていただけなのかも。」と弱音を吐く、愛に飢えた心寂しい少年をほっておけなくて、思わず追いかけてみたらそんな言葉が口をついて出てしまったという感じではなかったか。気になる彼のことをほっておけないと思わせたのも、なんだか母親的心情そのものではないかと密かに想像している。そして今の羽山がそういう風に差し延べられた手をふりきれない状態であることも疑いの余地はなかった。そこに、こども達の自然な感情の流れをセンチメンタルに透かして見ることができると同時に、羽山の為のみならず広く一般大衆の為に演技者として生きる倉田紗南の切実な立場を思う。タレントであり女優である紗南の遠さは、即ち羽山少年にとっての母親= 女としての遠さと、皮肉にも同義だったわけだ。

失恋コール

 羽山の倉田に対する気持ちは大きく揺れ、風花の愛情に寄り掛かる日々が始まる。しかし、映画のロケーション撮影の為に山へこもっている倉田紗南はそんな状況を知るべくもない。羽山はずっとあの、バスを見送ってくれた羽山であると思っているし、小学生の時、あの約束の夏に猛ダッシュで自転車をこいで混沌の中から救い出してくれた頼れる男の子のままだと思い込んでいる。こどもにとって、三ケ月という時間と会えない距離というものがどんなに切実なものであるかを、大人社会の尺度で慣らされている少女は理解できていなかった。厄介なことに、紗南は中途半端な大人なのだ。たったひとことの彼の言葉を胸に、仕事に徹底して打ち込めるのはやけに殊勝であると言うべきか、それは大人の忍耐に迫るものがある。映画の主役を務める為には、それなりの精神的負担もあるはずなのに、ただひたすら羽山に会える日を待ちわびながら、積極的に撮影に向かって行くプロ魂は立派過ぎる程立派なものだ。なきごとを決して言わぬのが紗南のキャラクター性だが、それらはひとえに「言える場所=羽山」と会う日の為にとどめおかれているのだということを見逃してはならないと思う。直澄のファ ンに袋叩きにあっても、粘着トリモチ監督に何度もわがままなリテークをくらっても叱責されても前向きでいられるのは、そうした諸々の嫌なことをそっといつか羽山にだけ伝えようと胸の内にしまっておけるからだ。泣きたくなったら泣ける場所があるという気持ちは、あの約束の夏からずっと変わっていない。彼という、最後まで倉田紗南を守ってくれる存在を心の支えとして持つから、彼女はなにものにも頼ることなく自力ではい上がれるのだということ。健気とか勝ち気とかそういうレベルではなく、今の彼女の存在自立の仕方として、羽山秋人少年との絶対的な精神的依存関係のことを思い起こさなければならない。この絆のことを何と呼ぼうが構わないし、多分それは一番辛い時代を乗り越えてきた当事者達にしか理解し得ない切実な感情だろう。しかし、そういう固い絆で結ばれてる筈の若い二人が恋という魔境に足を踏み入れた時、あまりにも結び付きが強過ぎるゆえに気持ちの上で迷うという事態が存在し得るのだという点がリアルなのだ。中学生になった彼女達を描き込む上で、小学生の時に刻まれた普遍的依存関係を恋愛感情という不可読的な情動性の中に投げ込み、濾過することで、更な る二人の成長のプロセスを描き込もうとしている姿勢には実際恐れ入る。まるで、複雑な感情に支配される大人社会の恋人達に到達するには、今のままの二人では純粋すぎるんだぞと言わんばかりに。そうして、求め求められあっている筈の少年と少女は、神の見えざる手によって引き離されるのだ。それは、恋を未だ自覚せぬ段階であった紗南にはいつか到来せねばならない瞬間であったとしても、あのPHSごしに伝えられた羽山の決定的な言葉の残酷さは思うにあまる。まるで存在事由の全てを打ち砕かれたがごとき、倉田紗南の真っ暗に曇った瞳の衝撃を思うと、いたいほど胸がつまる。さもありなむ、今の、そして今までの彼女を支えてきたのは、羽山少年が全てにおいてであったから。彼に全幅の信頼を寄せ、文字通り「恋」していたから、そういう自分を全面的に疎外する「風花と今つきあってる」という言葉は精神的ショック、それ意外のなにものでもない。紗南は、自分の感情を恋なんかではないと始終言い切っていたが、もし恋でなくば、心の繋がりがあると信じる彼がいつ誰と付き合おうがそれはそれで認められる筈だ。しかし彼女の内面的な本心は号泣した。泣けるようになるまで、本当 に理解の時間を要する程に。涙が出てきたのは、大人の女の人である麻子さんに付き添われて「それはね、紗南ちゃん、恋なのよ」と諭されてからだったというのが、非常に痛ましいと思う。それ程、彼女の心に潜む恋という言葉へのコンプレックスは深く、ずっとずっとそれゆえ気持ちの矛盾に怯えてきたということなのだから。ようやく堰を切ったように泣き始める紗南の少女性に、あらためてやむをえぬ羽山少年の罪を思う。それは恋愛篇とうたわれたこどちゃ中学生篇の真価が本格的に始動しはじめた瞬間であった。

直澄問題

 そして本当に胸が痛むのは、恋に破れておかしくなる程精神的にだめになってしまった倉田紗南の行末を目の当たり見据えなくてはならない、加村直澄少年の件なのだ。彼は、ヒールバンのCMで紗南と共演して以来、タレント活動の世界の側からずっと彼女を支え続けてきた。あの約束の夏に於いても、マスコミの包囲を倉田家から解除したのは単独記者会見で自らの出生の秘密を暴露して記者たちの目を自分に引きつけた直澄君であった。何故そうするのか? 答えはたった一つしかない。紗南ちゃんが好きだから……そう、幼少の頃から芸能活動を始めTVに出演していた紗南を初めて見かけた時から、直澄君はずっと恋していた。彼にとって紗南の存在は生きる目標であり、あこがれであり、まさに今芸能界に居る自分という存在の直接的動機であった。つまり、今の直澄少年の存在理由がひとえに倉田紗南への想いに収斂されているのだということ。自分の存在をTVの中の少女に投げかけることで、直澄少年は親にめぐまれなかった境遇を乗り越え今ある人格に育った。そうした経緯はおそらく、思春期を迎えた今、猛烈な異性への情動性として彼を燃え立たせていると思う。しかるにそういった 感情性を表面にあまり出さず、極めて紳士的に、あくまで芸能活動上の一環として紗南と付き合おうとしている冷静な態度は、立派すぎる程に立派だ。しかし、それがゆえに危険であるとも思う。トランペットを吹かなければ精神的に落ち着けないやや不安定な感受性は、そうした危うさのささやかな兆候であるように見受けられる。
 直澄君の今までの人生は紗南ちゃんが全てであった。この事実はすべからく大きい。まして二人がいざ共演という段階になって、彼女が突如失恋の痛手で呆然としてしまっては……もはや自分の立場はない。あまりにもあまりな状況にあるのだ。きわめつけは忘れもしない、夜のバンガロー前の失恋シーン。紗南ちゃんが泣いているのを見て、自分も真っ赤に目をはらし涙をこぼれさせる直澄少年の胸中は思うに計り知れない。すごいよ、役者だよ、直澄。「紗南ちゃんが泣いているから……だから一緒に泣かずにはいられない。僕が、僕がいるよ。キミの為なら、何だってできる。だから泣かないで。」……セリフ、すごすぎるよ。これはもはや役者が演技の中でしゃべるべき台詞じゃないか。一介の中学生が彼女を抱き締めて心で語っちゃいけない思う。想いの深さが、今こそ少年の両腕に力を与え、力いっぱいにそう、魂までも抱きぬこうとする。しかし……しかし、紗南は「あたし、ダメだよ……直澄君、今は……ゴメン」と、震える声を痛々しく絞り出す。ああ! この状況下でどうしてそんな台詞しか返してあげられないものなのか。これ程までの、迫真の恋の告白が拒絶された時、直澄はただ泣 くより他ないだろう。何故、彼ではダメなのか。どうして、どうして……という思いが少年の心を問いつめ、うぁぁぁーっと泣き崩れる。益々きつく少女の体にしがみつきながら。決して手に入ることのない彼女の心を、震えながら抱き締めすがりつくように。
 愛を求め抱きすがり号泣する少年の、叫びに似た刺すような悲鳴が、とてつもない心の痛みを表現してやまない。人知れず誰よりも苦しみ抜いていた少年の、劇的な魂の咆哮であったと思う。なくした彼女の想いを癒し、「僕がいるよ」と力いっぱい抱きすくめる完ぺきなまでの舞台設定にありながら、この状況下で世界一好きな彼女に心を癒すことすら拒否されてしまった直澄君に、もう、何があるというのだろう。紗南が、彼の全人格性に触れる対象なのだとしたら、この場面における少年のバラバラに砕けるような心の痛みのことは推して知られるものだ。彼の立場はもはやどうにも救われようがないではないか。あの瞬間、彼は何もかも失ったし、すべてを賭した恋に深い絶望感しか残らなかった。こんな恐ろしいシーンは「りりか」の加納先輩号泣シーン以外、僕は見たことがない。究極の大地式、「泣き」の場面であった。男を泣かせるのに、これほど絶妙な手腕を持つ作家は他には居るまい。が、痛い。痛すぎる。少年の立場を思うとあまりにもむごすぎる……。
 結局、一つだけわかったことがある。倉田紗南は、いつも泣ける場所を求めている女の子だが、それはどんな場所であっっても構わないという性質のものではないということだ。そして100%の理解を求めて泣くのでもないということ。ただ、豪放的に彼女は泣きたいのだ。何もかも投げ出して、素裸で泣きたいと願っている。そういう一方的に激しい泣きのスタイルを、しっかと抱き留めてくれる相手を求めていたということである。それ程まで、彼女の傷は深いのだ。血を流す自分をごまかしながら生きてきて、初めて傷口をさらす相手に巡り合ったということ。その特殊性を外して、紗南の恋心を語ることはできない。だから彼女の場合、一緒に泣いてくれるような男の子を求めているんじゃないのだということを理解してあげなくてはいけないのだと思う。紗南の気持ちはもっとわがままで、もっと自分本位なものだ。相互理解というあまっちょろい依存関係では癒し切れない傷をしょっている。だから、直澄少年の気優しさだけでは決定的に何かが足りない。紗南の心の危機を救い切るには、受け皿としての包容力が圧倒的に不足するということなのだろう。直澄句君はあくまで倉田紗南にとって の「いい人」であり続ける。「心まで抱けたら」と、これ程このフレーズが似合う少年も珍しい。小さい頃から彼は紗南の演技に癒されてきたが、彼自身が彼女を癒すことができなければ夢はかなわぬだろう。望むらくは、彼も玲君のように彼女への依存心を解いて、自分の世界を新たに見つけてくれるよう、祈るばかりである。
 以上のように、こどものおもちゃ中学生篇シリーズは様々な恋愛の矛盾を抱える形で、ひたすら混線しながら過激なストーリーが突き進んでいる。絶対と思われた倉田紗南と羽山秋人のカップリングが崩れ、加村直澄・松井風花というキャラクターの介入を許したことは、むしろ意外な展開であった。今後、どういった形で誰が泣くことになるかはいよいよわからなくなってきたが、ひとえにこども達の純粋な気持ちがそうした意外性の恋模様を描くのであれば、それもこどちゃのテーマを汲み尽くした必然的な物語である。今はただ、誰もが流れを見守るだけがせいいっぱいの「現在」で良いのだろう。


65「そして二人はロングバイバイ」

【今だけでいい、過去も未来も要らない、今だけ……
 回る二人の世界。抱きしめ合うことが罪というならば、今しばらくの愛に時間を! 】

 「来年も、真ん中バースデーできるといいね。」
去年の冬の思い出が羽山の脳裏によみがえる。無邪気な笑顔の彼女がせつない。今年の冬は、二人一緒ではいられないから。それをお互い選んでしまったから。
「バイバイ、羽山」
虚ろに響く最後の言葉。リフレインする別れの光景。そして今、見上げれば巨大な広告塔に、他人のようなあの娘の微笑がのぞめる。あんなに近かった彼女が今、こんな遠い世界の人になってしまった事実を前に、羽山の胸中をざわめく感情は何であろう。かつての、野獣むき出しであった頃の眼光が瞳によみがえっている。紗南と出会うことによって、はじめて人間性を恢復した少年の心は、再び元の獣性にたちかえろうとしているかのようだ。世界にはぐれていた頃、彼女だけが手を差し伸べてくれた。彼女だけが、一緒に泣いてくれた。もう取り戻すことはできないのだろうか、あの笑顔。クリスマスイブに見せてくれた親友の表情を、お互いにもう二度と見せ合うことはないのだろうか。寂し過ぎる……このままではあまりにも。まるでこの一年間が二人にとって無意味であったかのごとく、あっさりと別れてしまったことに、残念でたまらない気持ちが押し寄せてくる。羽山自身、学校での態度を観察していると、破綻の兆しはもう見えている。

 僕は、羽山が「本当のことを言ってくれ、もう本人の口から出た言葉しか信じないから。」と言った時、紗南が本心を隠すものだと思っていた。隠し通すことができれば、羽山は風花のところへ行くだろう。そして紗南の気持ちのつけ方としては、本当のことを話さない方が正しいことのような気もした。今更ことをひっくり返すつもりがないのであれば、真実は心の内にとどめて自分を偽るのも途だろうと。しかし、彼のあの豹のような目に射すくめられ、緊迫した紗南は、つい本当のことを話してしまう。「羽山のことが好き。」……あからさまにそう答えてしまった彼女の表情には、ありありと後悔の色が浮かぶ。そして羽山も、さすがに怒る。ピコピコハンマーで女の頭をぶったたきながら、「なんでそうなるんだよ!」と怒りまくっていた。彼にしてみれば、あれ程アプローチしておきながらまるで無視されまくっていた自分の立場はない筈だ。にぶいのにも程がある。まして今頃好きだったんだと言われても、絶句するより他ない。やはり紗南は、自分の気持ちに気付くのが遅過ぎた。そして羽山の方も、この日を待てなかったことと今の自分の気持ちを「過去」として告白した罪を思う。まだと りつくしまはあった筈だが、紗南が「あたしも、もう、過去なの!」と宣言した所で、二人の会話はとぎれてしまった。「待て、俺は……」とつなごうとした羽山の呼び掛けの先が何であったのか、今となっては知るべくもなかろう。二人の会話は全て、風花に聞かれてしまった。

 色々なことを思った。羽山が風花のことを捨てられない理由も。かつて風花は高石少年とラブラブであったが、ひょんな誤解から二人の心は離れてしまった。そんな中、高石君に告白した新しい女の子がいて、彼は彼女とつきあいはじめた。東京に彼と彼女が遊びにやってきて、その時初めて高石君との仲がダメになった原因が全くの誤解であったことが判明したのだが、風花は、今彼とつきあっているしづちゃんという彼女のことを思ってウソをつき、よりを戻さなかったのだ。「もう、うちはあんたのこと何とも思ってへん……」と。そういう経過をウソの彼氏を務めた羽山は全部見ていて、そんな風花の割り切りと悲しい立場に何となく同情を寄せたことは否めない。風花は、自分よりも今ある彼と彼女の仲を思いやって、過去を葬ったのだ。そういう彼女を、今この場で放り出すことなど羽山にできようか?
 羽山と紗南も、ひょんな誤解が重なってダメになったと思い込んだ事情がある。そうしてふられたと思い込んで落ち込む彼に、風花は告白した。二人はそのままつきあい始めた。今、あらためて週刊誌の件や石田君の話が間違いだったとわかったとしても、全く同じ条件下で情によって過去を葬り去ることを選んだ風花のことを、どうして無下にできようか。結局はそういう彼女の哀しさを知っているからこそ、自分も同じく過去を葬る道を選んだのだ。そして決め手は、紗南自身が羽山のことを「過去」だと、風花に断言したことにある。その時、もうやり直しはきかないのだいう思い込みが、少年の頭の仲を駆け巡ったに違いない。しかし本当に「過去」なのか? こんなに好きあっているのに、二人の恋はもう「過去」のものなのか? あまりにもその結末は悲しすぎる。風花が葬った「過去」も、未だ釈然としない悲しさがよぎる。偽りの日々は結局、二人の告白の場を経過しても続けられることになってしまったが、恋から逃げようとして芸能生活に没頭する倉田紗南の行動に正義はない。彼女にはもう、帰る所がなくなってしまったかもしれないからだ。

 好きなのは、紗南が直澄君の背中の火傷の跡を見て、そっと実を預けるシーン。「直澄君て、底抜けにあたしに優しいよね。あたし、直澄君とつきあえたら良かったのかも。」……本心だろう。しかし、そうしないことをあの時選んでしまった。いや、そうすることを自らの純粋な気持ちが許さなかったと言った方がいい。羽山に対する純愛が、どんなに辛くても別の男の子の告白を受け入れることを決して許さなかったのだ。たとえ彼が他の女の子とつきあったとしても、ずっと彼を好きでいようと思った。そう思うことしかできなかった傷だらけの紗南が居た。それが本当の、倉田紗南の気持ちだろう。けれど、そうした純愛が実はうわさやデマで打ち砕かれてしまったもので、友達としての信頼すらもアテにはならなかった事実を知って、彼女は直澄君との精一杯の気持ちが「汚された」と思った。その感性があまりにもピュアで、涙が出るのだ。汚されたと思うまで、彼と彼女の気持ちがけがれなきものであったことを喜びにすら思う。だから、紗南と直澄関係は、恋愛に変わりたくても変われない純粋さで満ちあふれているのではないだろうか。今回、自分が悪役になってまで紗南と羽山の気持ちを はっきりさせようとTVの中で事実を暴露してしまった、直澄少年の意図も綺麗過ぎる。紗南ちゃんのことが好きだから、こんなことをしでかしたんだって……それはキミ、少年の純粋性以外のなにものでもない。大人の恋をするなら、もっと汚れなければならないのだから、何となく彼と彼女が舞台の上でだけの、お芝居の恋人関係であり続ける理由というのもわかる気がする。二人ともまだ、こども過ぎるのだ。そしてその割に、相手を意識的にだます演技もうますぎる。役者ならではの私生活における演技性が、直澄・紗南両名の逆説的悲劇であることは、画面の中でも正確に描かれていた。

 あまりに日常が辛くて、もう、風花の前に自分が立てないと思って、紗南は現実世界からの逃避を選んだ。髪を下ろし、羽山少年に別れを告げに行く彼女。「バイバイ、羽山……」踵を返し、潔く立ち去ろうとする彼女の腕を取り、少年はぐっと体を引き寄せ、抱き締める。これが……告白しあった二人の本当の心であることに間違いあろう筈がない。どうして今まで、こうすることができなかったのだろう。どうして真実は二人を結びつけなかったのだろう。紗南はその時、ただの女の子に戻って、「このまま時間が止まってしまえばいい。過去も未来もいらない。今だけ、今だけあればそれでいい……」とさえ思った。その心に何か偽りが生じるスキがあるだろうか。直澄とくっつかなかった純粋さは、そのままこの回り回る二人のシーンの純愛に引き継がれる。こども達の「今」が、純潔なる永遠性に取り囲まれるこどちゃ最高のクライマックスであったように思う。このまま、二人はこのままでいいんだと誰もが思ったことだろう。今だけでいいんじゃないか。どうして過去にこだわったり、未来を恐れたりしなくちゃいけないのだろうと、何度も問いかけてみた。答えは、つまびらかではない。許さ れぬ二人の恋の立場が社会的にどうあれ、今のこの二人の愛し合う気持ちが本物であるならば、やはり実現させないのは逃げであると僕は思う。逃げているのだと決め付けながら、その裏で風花の面影を思い出している自分はひきようだと、うなずき苦悶する。愛はいつだって、どこまでも罪深いものだ。つきつけられた課題に、解答は見いだせずに終わった。

 紗南は、涙にくれながら、恋をしていた自分を振り切るかのように彼の腕を離れ、逃げるように駆け去っていく。歩道橋の上、彼女がこんなに涙を流す必要があったんだろうか。こんなに辛い気持ちに耐え抜く必要が一体あるんだろうかと、背中で息をしながら泣いている少女に訴えかけたくなる。強くないから、逃げるより他なかったのだろうか。強くない彼女は、日常を離れた芸能世界で頑張るより他ないのだろうか。そこには確かに、優しいパートナーの少年がいて、多くの親切なスタッフに囲まれ、仕事を生きがいにする程の充実した生活が待っているのだが……されど偽りの日々。今年のクリスマスイブを、世界で一番好きな人と過ごせないなら、彼女の人生をどこまでも偽りと呪ってあげよう。女優倉田紗南が、神保中学の生徒であることを忘れてしまうなんて、僕は決して許さない。いつかもう一度、何もかも心晴れて彼の胸に抱かれる日が来ることを、こどちゃが最終回になるまで願い続ける自分がここにいる。こどちゃ一年分の歴史が無意味なものでなかったことを証明してくれなくては、エンドマークは決して見られないのだ。