「まえだじゅん」ぷちさいあく理論

 

by ロリー瀬川

 

*2007年冬コミにCD−ROMを出したんですが、知り合いが一つ、情けで買ってくれただけの文章です。勿体ないので載せておきます。

はじめに
 
 このCD−ROMは、すでにシナリオ引退宣言をしていると思われる、「まえだじゅん」 という希有な創造性を持ったライターの作品について、今思うところをぷち最悪的にひととおり読み解いてみようという、きわめて意欲的な試みにあふれた無謀とも言うべきテキストの集合体になる予定だ。ただし、コミケまでもう一週間もない状況におかれているので、いったいどこまで書いていけるのかまったく予断を許さない。神は今回も我に時間を許さなかった。これは一つの煩悶たる試練の記録である。
 まず、「まえだじゅん」を知らない人のためにお知らせしておくと、「まえだじゅん」もしくは通称「だーまえ」とは、いわゆるパソコン系美少女ゲームの作り手である。美少女ゲームというのは、とりあえずぶっちゃけて言えば、コンシューマーゲーム機ではなく、汎用パソコン(Windows)で稼働するかわいい女の子と恋愛ラブラブなえっちぃ系のゲームのことなのだが、世のそういった既成観念を根底から覆すような、本来の目的とは全く異なるとんでもない異端作品を「まえだじゅん」はこのフィールドで作り続けてきた。特にTACTICSという会社から出していた「MOON.」「ONE」の二つが、凶悪で、その中でも「ONE」については、これをやったおかげで僕は同人活動全部やめたくなってしまい実際サークルを壊滅させてしまった。別にこんにちの我がサークルの頽落の原因をゲーム一作のせいにするつもりはないのだが、「まえだじゅん」という人の影響はかくも激しく大きいものだったのである。ついでに、尾張小牧がぱたりと本を出さなくなったのはきっとそういいう事情だということで、ここはひとまず「了承」。
 さて。一応共通認識として確認しておくと、「まえだじゅん」の関わった作品は、前述の「MOON.」「ONE」の他、Keyブランドへ移籍後の「Kanon」「AIR」「CLANNAD」(その追加シナリオである「智代アフター」)そして今夏発売された「Little Busters!」の六本(パッケージとしてカウントすれば七本)ということになる。今気がついたが、なぜか全部英語タイトルだ(つまりはおそらく同じ人物が企画段階からネーミングに関わっている)。そして、僕自身の傑作度評価で言えば、「MOON.」に始まるそのままの順序がまさしく「まえだじゅん」の世界観の面白さ順ということになるのだが、その点はまことに主観的なものなのでファンの間で諸々粉説あることだろう。むろん、ゲーム作品というのはアニメーションと同じで、たくさんの人間が分業体制で長い時間をかけてじわじわと作り上げるものなので、これらの全てが「まえだじゅん」の個人世界そのものだと言うつもりはないのだが、この人の関わったあとはぺんぺん草一本生えないくらい客観的で堅固な世界観を失い、不安このうえない幻想的な観念的疑似世界観に落ち込む傾向があるので、やはりその存在は一連のシリーズ作品にとってとてつもなく無視しがたい、大変重要な特異点なのだろう。他の美少女ゲーとは決定的に異なる、一連の独特の難解さと不可読性は、だいたいこの「まえだじゅん」の仕業なのだと考えてよさそうだ。幸い(?)近作「リトバス!」を最後に「まえだじゅん」はメインのシナリオ稼業から引退することをほのめかせているので、本当にそうなるのかどうはともかくとして、ここらで一度まえだ作品に通底する異常なトリックというものを洗い出し、なぜこれらが一般的理解困難さに終始するのか、その点を徹底的に追究できたらと考えている。要するに、わからないまでも一応「まえだじゅん」はこんなことを考えているんじゃないかという世界観の輪郭みたいなものを提示できたらと思っているわけだ。 
 

「りとばす!」いってみよー

 
 それで、えーと、最初にどこから手をつけるべきかどうか非常に悩んだのだが、まだプレイしてから半年も経っていない新鮮な感覚を持ち続けることができているはずの「リトバス!」がとっかかりとしてはいいんじゃないかとはじめに思った。いや、思おうとしている。実は一回しかやってないので細かいストーリーをかなり忘れかけてしまっているのだが、一応この作品についてはコンプリートした直後にいくつか解読コラムを書いてほめぱげに掲載した経緯があるので、内容の正誤のほどはともかく本CD−ROMの巻末にも再収録し、あらためて内容を思い出してみたい。
 まず、この「リトルバスターズ!」だが、明らかな夢オチである。こんなことでいいのかどうなのかわからないが、ここまで開き直って夢オチで落とされてしまってはもはやぐうの音も出なかろう。元々「まえだじゅん」のシナリオでは「夢」はとても重要なタームで、それは「幻想」と同時に「記憶」という意味も担っている。夢は夢にすぎないと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも夢を見る本人にとっては、それは過去のリアルな記憶の再生をも含み、また、過去に失った取り返しのつかない大切なものを取り戻すための有効な手段でもありうる。そしてここが大切なポイントだが、おそらく「まえだじゅん」自身の考え方において、「夢」と「現実」の明確な境界分けというものはないだろう。それらは日常世界の中になぜか共存する。「幻想」と思われていたものも「現実」へとつながり、いつのまにか「現実」も「幻想」の中に取り込まれていく。そもそも人の記憶の仮象の中にリアルとアンリアルの線引きなどないだろう? というのが、一つの確定的なテーマになっているように思える。そして、本来的に人の意識というものは常に、今現在も、「記憶」の中にしか存在し得ないのである。従って、もし主観内において「記憶」が変容する事態が生じたとするならば、それはどんなに不本意でも不条理でも受け入れなければならぬその人の「現実」そのものであるのだという厳然たる事実が問いかけられようとしているのではないかと思う。いわば、全ての事象が胡蝶の夢にすぎない。たとえばゲームの中の主人公は、今自分の生きている世界が「夢」でないという保証をどこにも持ち得ない。「まえだじゅん」は、処女作「MOON.」の中で少女がエルポドと呼ばれる記憶再現機械の中で「夢」を見続けるストーリーを描いたときから、現実と幻想が交錯する独特の世界観を取得し、その後の作品にずっと再現し続けてきた。かのマシンが人為的な「夢」の発生装置だったとしたならば、そしてそれが「精神の鍛錬」に使われたということならば、その設定は現在の「リトルバスターズ!」でも全く同様に援用されているということができる。直枝理樹は、棗恭介と他のみんなが作り上げた「夢」の中で精神の鍛錬を行い、自らの運命を自分で切りひらく精神力を獲得し、他人に依存しようとする弱さを克服して、鈴と共にやがて野球グループ「リトルバスターズ!」そのものを率いるまでの心の成長を遂げたことになっているが、結局、彼が最終的に「夢」を脱したという表現はどこにもない。「MOON.」の幸せなラストシーンが、誰も気がつかないうちに再び「エルポド」の中に表現されていたように、丹念に見れば「リトルバスターズ!」のラストシーンの修学旅行やり直しのドライブが未だ彼らの幸福な「夢」の中にあることを、最後までリアルな可能性として示唆することができるだろう。「まえだじゅん」は「夢」の価値と「現実」の価値を等価に考えているので、こうした世界を否定しはしない。人は「記憶」の中に生きるしかなく、また「記憶」はいかようにも外的要因によって変容しうるものである。従って模造記憶も幻想も、それらが永続的に持続する限り現実として受け止めることができる。彼らはずっと幸せなはずだ。むしろ仲間がいること。一人きりでないことこそが、大切な生きる意味につながっていくのだ。どんな時でも「まえだじゅん」が描く主人公は「他者」を隣におきたがるが、それは取り返しのつかない一人きりの寂しさ、あるいは過去の「喪失」の記憶が当人にそうさせているのではないかと穿って見ている。もしもとりもどせるものならば、それが幻想であっても構わないと言っているように思えてならない。「現実」の中で失ったものを「夢」の中で何が何でも取り返す。失敗を重ねつつも、何度でもそれを繰り返して、最後の最後は幸せな記憶を残す。それが、「まえだじゅん」の不滅のシナリオスタイルであり、こんにちまでに及ぶ彼の創作の一大テーマだったわけだ。
 
「夢」診断
 
 このように、「リトルバスターズ!」が徹頭徹尾10人のキャラクターによる共同の「夢」の世界のお話しであるという点は、作品内部でも棗恭介の口から明言されていて今更否定しようもない事実なのだが、おもしろいのはその「共同性」である。概して「夢」というものは一人きりで見るものであり、ある個人の脳内で完結しているべきものだ。ところがここで現れる「夢」世界は、それが本当に「夢」と呼べるものなのかどうかは別にして、みんなが同時に共同して一つの空間を「夢」見ているわけで、複数の意識間に渡る公共的な共有世界という性質を持っている。主観と主観の間に発生した、間主観整合幻想とでも呼ぶべき異空間なのだが、この「夢」は限りなく客観世界と近い形でそこに安定的に定位している。一見、幻想とは思えない精巧な姿だが、さりとて完全なる客観とみなせるわけでもない。通常世界であれば、全ての対象人物(キャラクター)について個別的人格意識が備わっていると蓋然的に想定されるわけだが、ここはあくまで都合良く作られたみんなの「夢」の仮想世界である。この「夢」を同時的に共有しているのはおそらく10人の「リトルバスターズ!」のメンバー達だが、「夢」の中にはその10人以外の人間も当然出てくる。その人たちは、外面的には一見自立的な心を持った人間に見えるかもしれないが、その実、内には自分という意識を持たない空虚な存在だ。簡単に言えば、鈴のライバルである笹瀬川佐々美という人物は誰かが作り出した影なのだ。誰と言うまでもなく、これはかつてのクラスメートであった笹瀬川佐々美の記憶を元に「夢」の中に構成された共同幻視なのであって、校舎とか寮とか校門とかと同じ、無機的な「背景」にすぎない。いや、それだけで片づくのだろうか? 「夢」を見ている10人についてすら、いつも、意識がその世界の中に存在するとは限らない。自分というキャラクターの内部に定位している場合もあれば、離れた位置からただ眺めているだけの場合もある。そういう時には、自分の肉体を離れて客観的に自己自身を霊視することになるので、「夢」の中にまさに自分自身の姿を見ることになるだろう。こうなってくると、たとえば、神北小鞠という登場人物は、その中で常に神北小鞠の意識が本当に存在して自立的に活動しているのだとは限らない。神北小鞠の意識はどこか外側で休憩していて、神北小鞠という人物の影を誰か別のメンバーが「夢」見ている可能性もある。その場合、「背景」と表現した前述の笹瀬川佐々美と変わりのない、単なる幻視としてのキャラクターである。人格なき「背景」となっている。つまりは、神北小鞠を見かけたとしても、本当にそれが神北小鞠の意識を伴ったものなのか、空っぽの誰かによる想像体であるのかは実際上確かめようがないことなのである。この設定はとても面白い。全てのキャラクターは、みんなの共有意識の中でエイリアスとしてあらかじめ作りこまれている。それぞれは、自分というキャラの中に入ったり出たりすることができる。あるいは反則技かもしれないが、こっそり他人のキャラの中に入ってなりすますということも考えられる。これが、共同的に「夢」を見るということの実態なわけだが、すでに僕らはこういうケースの極めて近似したモデルを知っている。「まえだじゅん」自身、前からRPGが作りたいと公言していたが、これはまさしくネットワークRPGのシステムを体現している世界だと言えよう。かのバーチャルシステムを「夢」の中に現実化した仮想世界こそが、実はこの「リトルバスターズ!」という世界観そのものなのだ。
 いわゆるネトゲーが日常化した今の時代、ここで起こっている事態もおそらくほとんどの人に容易に理解され抵抗なく受け止められているに違いない。むしろ僕のようなゲームに縁のない旧世代の方が後から、その事実に気がついたと言うべきか。はじめ、このゲームの考察を行っている人たちのNPCかPCか? という議論に全くついて行けなかったのだが、要するにコンピューターが動かしているキャラクター=ノンプレイヤーズキャラクター(NPC)=「背景」としての神北小鞠に対して、ログインプレイヤーが動かしているキャラクター=プレイヤーズキャラクター(PC)=意識を持った神北小鞠 という相似的な対比づけが可能であるわけだ。我々は「リトルバスターズ!」の世界を一つのネットワークゲームと理解したとき、「夢」を共有する世界の構造的な意味についても非常にたやすく理解が進むことだろう。まず、みんなが通うべき学校がゲーム盤として用意された。それに付随して、各自の寮や、食堂や、校庭といった活動用のマップが拡張された。その次に、参加者10人分のエイリアスとしてのキャラクターが作られた(ゲーム用の駒ですな)。人間がプレイヤーの数だけでは寂しいので、他のクラスメートや別クラスの人たちや犬や猫やありとあらゆる動くものが配置された。こうして、10人による参加・非参加型のセカンドライフが完成していったわけである。そう、ここでは、爆死した生徒達の生前に残してきた「想い」をかなえる為の、文字通り「セカンド」ライフが繰り広げられている。彼らは、一学期のはじめから修学旅行の直前までのわずか三ヶ月間という限定された時間を何度も繰り返しながら、仮想人生(バーチャルライフ)を体験している存在である。棗恭介をリーダーとして、ある強固なルールに基づいて、ここではほとんど現実と変わらない「夢」が延々とリピートされている。一歩引いてみれば、ゲームをプレイしているのは実は僕らだけではない。ゲームの中で、それと気づかない形で登場人物達自身がネットワークゲームをプレイしていて、当初から予備知識なしで見せられていた学園生活は、その盤面の光景だったのである。なんという騙しのテクだろう! ここに至るまで「まえだじゅん」をあなどっていたわけではないが、RPGというメタファーをこういう形でゲームの中に持ち込んでくるとは全く予想がつかなかった。彼はネトゲーを作りたいフラストレーションを、本業であるアドベンチャーゲームに見事ぶつけたわけだが、トリッキーにも、ネトゲーをしている連中のお話しそのものをものの見事にアドベンチャー化したのだ。鍵を探し出さなければ、それがネトゲー世界であることにすら気づかないような仕掛けを施して。途中、他校の生徒がバスの事故に遭ったという話が出てきた時点で、全体が仮想世界で成り立っている可能性を怪しんではいたが、それにしても最後までまんまと騙されてきたと言う他はないだろう。と同時に、では、ストーリー設定上明らかなNPCであるはずの笹瀬川佐々美とか二木佳奈多というキャラクターの心情表現はいったい何であったのか、ここで描写されているストーリーは彼女たちの思いも含めて全て偽装だったのか? 赤福餅だったのか? という構造的な疑念にも突き当たる。判断は微妙だが、たぶん、弟子達に書かせたこうした傍系のシナリオの意味を最終的に無化してまでも表現したい強烈な何かが、「まえだじゅん」の中にはあったのだろう。ひいては、棗恭介というリーダーに託された、虚構を作り上げ、維持し、そしていつか去っていかねばならない己の存在の哀しさを、最後の場面で切実に訴えかけたかったのかもしれない。いつだって「まえだじゅん」シナリオはメタフィクショナルな意味づけをもって書かれてきた。このたびもまさしく、その通り。書きたかったのはきっと、棗恭介のあの、雨の中の絶叫だったのだ。
 
意識間共鳴と世界創出への疑問
 
 かくして、「リトルバスターズ!」とは、10人の生徒達が共同参画して起こした「夢」の世界であることが明らかになった。ただし、それがなぜ可能になったのか、どのようにしてみんなのその「夢」が始まったのかは、正確にはわからないと棗恭介は言っていた。彼の言葉がいつもいかなる時も作者の心中の代弁であったことを鑑みると、おそらく「まえだじゅん」自身にもその明確な答えというものは無いのだろう。画面として描かれているのはただ、暗がりに広がる複数の波紋である。これらは、10人の生徒達の意識が共鳴しあう不思議な空間を視覚化したものであり、あくまで、恭介の呼びかけに応える声がそこにあったという事実のイメージ表現にすぎない。これをどう考えるかは、受け手の側に完全にまかされていると言って良いだろう。
 一つの解釈を提示しておくと、これは、バスの事故に遭ったメンバーの集合的無意識の場が顕現化したイメージであると言うことができると思う。人間には、通常自覚されている顕在意識の他に、普段は無自覚である潜在意識というものがあると考えられている。人の行動を規定するのは、主に自覚された意識であると長い間考えられてきたが、精神分析学が進む内に、むしろ普段自覚されていない無意識の部分の影響が大きいのではないか、という仮説が生まれつつある。カウンセリングとは、この、明示的ではない過去の潜在的意識に打ち込まれたアンカーを発見し、取り除いて傷を修復することが目的で、事実を無意識の場から引き出すためにはしばしば催眠療法のようなトランス的手法などがとられるが、いずれにせよ人の意識というものは自覚されているものだけが全てでないのはたぶんわかっていただけるだろう。そしてユング派の一部では、この無意識というものが個別的肉体を離れて、時間や空間の隔たりを超えて、人と人の間で潜在的にチャネリング(交信)していると考えられている。これが、集合的無意識であり、元型論等から導き出されてきた学術用語である。あまり考えたくない事実だが、バス大爆発で10人の生徒達の肉体はふっとび、意識の表層は破壊されてしまったと想像できるので、ここでもし、人の意識の波紋がお互いに共鳴しあい美しいレゾナンスを描くには、潜在せる無意識の領域がざっくりと割れた意識の果実の内部からこぼれ落ちてむき出しになり、それぞれが断末魔の波動を発するうちに、本来のポテンシャルであった集合的な場に於ける同調作用によって、互いに密なる結合をもって一つの共同意識をもたらした結果なのだと考えるのが、イメージ的にはしっくりくるだろう。暗がりの中で波紋が互いに交わりあう映像の言わんとしていることとは、統一場における精神と物質の波動共振のヴィジョナルで、ここに死にゆく彼らの最後の魂の座を認めたということに他ならない。後に直枝理樹の精神が統一場還元して宇宙雲にまで届いたりするので、何の冗談か? と思えたりもする辺りが、まぁ「まえだじゅん」である。いやそんなことはどうでもいい。
 かくして、この「夢」の原因者が誰なのか? というのがここでの問題である。むろん、答えは、「まえだじゅん」が用意していなくても僕が、用意している。
 「夢」は、棗恭介が呼びかけることによって、それに呼応する声達が集まり、みんなの意識が共鳴しあうことによって世界が始まったと記されている。なるほど、棗恭介は最初の呼びかけの発信者であり、共同参画者の代表ということになる。確かにこの世界のルールは彼が牛耳っているように見えるし、NPCである古式みゆきの影を試合途中で都合良く出してみたり学校を真人で埋め尽くしたりという悪戯を自在にやってのけるところをみると、かなり広範囲に随意的にこの世界を動かし導いているようにも見える。けれども、彼には果たして世界を0から作るほどの力があっただろうか? あるいは逆に考えてみて、世界を壊すほどの力を持ち得たか? という設問を設けるならば、おそらく否である。万能と思われる恭介も、世界の存在の根元的なルールには縛られているように思える。事実、その世界がどうして始まったのかはわからないと、彼自身は告白してしまっているのだ。すなわち、棗恭介は世界の原因者たりえないのである。
 では、世界は外部から与えられたものなのだろうか? 彼らの外に、第三者としての創造者(神)がいるのだろうか? しかし、その痕跡は本作品には全くないし、客観的な議論を起こさなければならないこの場では、勝手に想像することも許されないだろう。
 そこでもう一度個々のシナリオを振り返ったとき、PCである10人のうち、たった一人だけ、個別ルートに於いて「世界」を完全に終わらせてしまった人物が存在することに気がつくことになる。もったいぶって申し訳ないのだが、この説というのは長い間主張し続けてきたにもかかわらず不思議なほど今まで全く誰にも賛同してもらえていないので、あえてそのユニークさをわかってもらうために興味を引きつけて書いている。僕が言いたいのは、来ヶ谷唯子の「夢」の終わりの光景を、今一度思い出して欲しいということなのだ。
 
来ヶ谷唯子ED1ED2
 
 おおむね知られていることだろうが、来ヶ谷唯子のED(エンディング)は二種類あって、最初の姉御シナリオルート終了にあたってはその1番目しか見ることができない。選択肢のない強制EDとなっているのをED1とする。それに対して、「リトルバスターズ!」をコンプリートした後に再度姉御シナリオをたどっていくと、ラスト付近で選択肢が現れる。この二択によって、先ほどのED1に行く場合と、別解であるED2に至る場合とが存在する。このようなフラグが立つのは姉御シナリオだけなので、ここには作者の何らかの策術的意図が込められていると考えられよう。全てを終えなければED2は見られない。裏を返せば、ED2こそが、オールコンプリートの結果となり、「リトルバスターズ!」というゲームの時間的終焉に他ならない。実際、ED2は季節的にも一番後の話しになっているわけで、この点をもってしても来ヶ谷唯子シナリオはもっともユニークだと言えると思うのだ。
 それでは、気になるED1とED2の比較検討を行ってみよう。
 ED1では、来ヶ谷唯子がたった一人放送室の窓辺でピアノを弾きながら、誰かわからぬが「必ずそこへいくから」と彼女の携帯にメールを寄こした「誰か」を待ち続ける印象的なシーンで終わりを遂げる。「早くこないかな」。その「誰か」とは、主人公の直枝理樹なわけだが、唯子は理樹のことをこのラストシーンではほぼ全て忘却してしまっている。懐かしいなんらかの予感だけを感じながら、携帯に残されたその謎のメッセージを漠然とあてにして、放送室で待ち続けているのだ。彼女はこの部屋から連れ出してくれる誰かを待っている。けれどもその待ち人は訪れる気配がない。おそらくその世界にはもう、直枝理樹は存在せず、彼女はただ永遠にそこで待ち続けるだけの運命であることを予感させる。それは静かだがとても寂しい光景だ。
 そこでまず季節に着眼するが、彼女は「そろそろ扇風機が必要だ」とモノローグで語っているように、放送室は初夏のけだるく暑い空気に包まれている。季節。それは、「まえだじゅん」作品にとってはいつだって非常に大切な意味を含んでいるものだ。「MOON.」で語っているように、時の移ろいを感じるためには、めぐる季節のうつりかわりをながめるのが確かなのだと氏は考えている。どんな作品においても、めぐりゆく季節は彼にとってとても大切なテーマなのだ。人間にとっての時間経過とは、季節の変化そのものであり、裏を返せば季節が変わらぬ内は風景も固定され、物語時間も固定されているのだという思想が全ての作品に於いて通底している。これはまず、「まえだじゅん」を考えるにあたっては第一に着目せねばならないポイントだろう。一つ一つの作品の背景テーマが季節に集約されるように組み立てられている限り、異なる季節を横断するような話しは、「まえだじゅん」は日常として描かないわけで、もし作品中で禁じられた季節変更が見られるとするならば、それは非日常的な世界の変動を意味している。あるいは世界から世界への移行。彼にとって季節変化とは世界変換と同じくらい重要な意味合いをもっていたはずだ。時の流れによって何もかもが変わる。その中で誰かが時間の流れに逆らって何かを待ち続けるときだけ、時を超越する人の想いの強さと確かさを描かんとする場合に至ってのみ、まさしく「まえだじゅん」の文学では季節が加速度的な変化をともなってものすごい勢いで移ろいゆく。Kanonで冬。AIRで夏。CLANNADで春。「リトルバスターズ!」は、春から初夏にかけて。限定された時間。風景。そしてそれらからの移行・流れを常に明確に意識する形で、季節は何らかの意味づけを行われた象徴的な指標として物語の中に出てきているはずだ。従って、来ヶ谷唯子ED1が、春−>初夏へ移行した後として描写されていることにはとても重要な意味がある。彼女は、この物語の登場人物の中で唯一、夏を迎えることのできるキャラクターとして成立したわけだ。
 基本的設定を思い返そう。棗恭介は、「リトルバスターズ!」という繰り返す「夢」の世界を、「一学期の始まりから修学旅行までの期間の繰り返し」という形で成立させている。この「夢」の内部にいる限り、誰しもがその約束事を守らねばならない。かれらはその世界にとどまる限り誰一人、夏を迎えることが原理的にできないはずなのだ。とするならば、来ヶ谷唯子がED1においてこの前提条件を突破してしまっている理由を考えねばならない。さぁどうしよう。厳密な意味で、ED1の唯子は、「リトルバスターズ!」に登場する来ヶ谷唯子と同一人物なのだろうか? ・・・当然僕は、NOだと考える。
 その辺は、ED1の唯子の服装を見ていても、違いがわかるのではないかと思う。「リトルバスターズ!」で見慣れた唯子の服装は、開襟の白シャツを大胆にはだけて胸のボリュームをこれでもか!というぐらいに強調した、直枝理樹君でなくても目の当たりにしたらどぎまぎするようなセクシーないでたちで、当然のことながら襟元の赤いリボンは付けられず省略され、その上から制服の上着が羽織られている。いつでもそういう格好で姉御はさっそうと現れ、かっこよく去っていった。ところがED1では夏を迎えて大変気温が上がっているにもかかわらず、唯子はきちんと襟元を閉め、指定のリボンを形よく首に結びながら清楚にピアノを弾いている。この表現の違いは、彼女の人格がなんらかの理由で変遷してしまっていることをはっきりと物語るものだ。どうみても、この二つの唯子は同一の人格性に基づくものではない。従って、「リトルバスターズ!」の空間世界と、唯子ED1の空間世界を同じ時間軸上に捕らえることには無理が生じるはずである。先に「リトルバスターズ!」の世界成立の条件として一学期の前・中盤の繰り返しということを述べたが、こうした前提とED1の時制の矛盾性を考量すると、二人の唯子は別世界の別人格であるという結論がもっともしっくりくることになるだろう。ただし、記憶を失っていても唯子の携帯には直枝理樹のメールが入っていて、唯子は「リトルバスターズ!」の時の中で恋した彼をED1で待ち続けている。すなわち、世界は完全に切れているわけではなくて接続しあい、季節は断絶しつつもゆるやかな連続的時間性を保っている。切れていながら、つながっている。それが、二人の唯子と二つの世界、そして二つの季節のユニークさであるわけだ。
 次に来ヶ谷唯子ED2であるが、季節はさらに飛んで、秋の訪れへと変わっていたかと思う。唯子は直枝理樹のことを覚えていた、すなわちあの「リトルバスターズ!」の世界の中で二人が恋しあい悲しくも別れたことを記憶の中に保ち続けていたご褒美として、唯子からの「告白」という約束を果たす。記憶が残っていなければ、約束は果たされなかっただろう。ED2とは、「リトルバスターズ!」がコンプリートされ、直枝理樹とその仲間達が二学期の教室に帰ってきた以降の姉御ルートの記憶再生(思い出話)という構成になる為、当然先ほど書いた「リトルバスターズ!」内における約束事、誰も夏を迎えることができない、という制限にとらわれることなく時制の限界を突破できている。教室には、いつもと変わらないセクシーな来ヶ谷唯子が居て、その幸せな時間の延長上に、ED2、秋の告白がやってくる。こちらは非常に素直な話しの流れだと思う。唯子が安住していられるこの世界は、お話しの流れ上、直枝理樹が作り出した世界ということになっていて、そこへ全ての人たちのさまよえる魂を回収した結果である。だからED1の唯子とは排他的であり、ED2とED1とは「リトルバスターズ!」とのつながりを何らかの記憶継承という形で保ちつつ、それぞれが別世界として独立していなくてはならない。たとえメールが携帯に残っていたり、記憶が継承されたりしていても、あくまで「リトルバスターズ!」と唯子ED1と唯子ED2とは異なる時間、異なる世界、異なる人格(パーソナリティ)である。姿形はゲーム上のエイリアス(アバター)であるから、作り込むプレイヤーの意識によって容易に変化することだろうし、世界が完全に入れ替わってしまい作り直されていたとしても、なお、同じ形を保っていることもありうる。その辺りは十分に注意して見ていかなくてはならない。
 もう一度確認しておくと、まず「リトルバスターズ!」の世界がある。そこに作られた、エイリアスとしての来ヶ谷唯子がいる。そしてED1の唯子の世界だが、「リトルバスターズ!」の世界とは違う。時間的にも空間的にも別地平にいる唯子である。パーソナリティも異なる。ただし、記憶の断片が継承されている。だから理樹のメール(つまりは記憶の欠片による模造)が届く。しかし、これも「夢」である。さらにED2であるが、この世界は「リトルバスターズ!」の最終章で直枝理樹がゼロから再構成した「夢」の世界(新生「リトルバスターズ!」)である。そこでは「リトルバスターズ!」を繰り返していた10人のメンバーの魂(意識)が回収されている。だから、パーソナリティも「リトルバスターズ!」の世界とシームレスにつながるように再構成されている。しかし、厳密な意味で「リトルバスターズ!」とは区別して考えられなくてはならない。
 そして、リアル(現実世界)はどこにもない。ただ、バスが燃えている。
 
唯子・世界の終わり
 
 さてさて、EDからまず追い込んできたので前置きが大変長くなったが、いよいよ来ヶ谷唯子シナリオの核心に触れよう。
 来ヶ谷唯子ルートに入ってしばらく、たぶん、直枝理樹が唯子のことを好きになり、唯子を夜の教室に呼び出して、馬鹿恭介や馬鹿真人が校庭で秘蔵の花火をどかんと打ち上げる美しい感動のシーンまで、世界はまだ「リトルバスターズ!」というノーマルのループの中にある。リトルバスターズのメンバー全員が、この世界には存在する。つまり、それは棗恭介の多大な影響下にある、メンバー全員の共同幻視の世界である。みんなの共同の「夢」世界である。しかし、この日を境にしておそらく、唯子の理樹に対する気持ちは決定的な意味で変化したはずだ。いわば、彼女は、直枝理樹という少年と一緒にいることを望んだ。直枝理樹を欲した。直枝理樹に、「恋」した。そのことが、世界の破局的な変容につながってゆく。
 一つだけ帰納的に確かなことがある。唯子は、「恋」をすることができない少女だった。
 「恋」とは、彼女にとって破滅なのだ。だから彼女は、そんな自分が悪かったのだと後ほど何度も何度も理樹に謝ることになる。こうなったのは全て自分のせいなのだと、自覚している。そして、破滅に向かう世界を彼女はどうすることもできない。記憶は白くかき消されてゆき、最後は雪に埋まる。何もかもが文字通り「夢」と消えてゆく。
 日曜日に、直枝理樹と来ヶ谷唯子はデートをした。その日は、天気が崩れた。まるで二人の逢い引きを邪魔するかのように。別にデートと自覚して校外で会っているわけでもないのに、ただ二人で肩を並べて歩いただけなのに、たったそれだけの日常の延長すら、どうやら世界は受け付けないらしい。この日の二人のデートはだから、世界にとって無かったこととなる
 来ヶ谷唯子はリトルバスターズから離れ、放送室にこもるようになる。直枝理樹は当然そこへ何度も通うようになる。二人で楽しく放送室で会話し、校内にマイクを通して仲の良さを拡声してしまう。だが、世界にとってこの一斉放送は無かったことになる
 ある夜。ついに理樹は来ヶ谷唯子に告白する。彼に恋していた唯子は当然NOとは言えない。だから当然OKという流れになって、二人はつき合っているという事実が生まれる。しかし、世界にとってそんなプライベートな事実も無かったことになる
 6月20日。日曜日からずっと止まなかった雨が、ついに雪になる。6月の雪! 世界は明らかな異常をきたしている。しかし誰一人、その事実を指摘しない。考えてみれば、雨はいったいもう何日降り続いているのだろうか? もう一週間以上も雨の日が続いていやしないか。いやまて、雨が降り始めたのは二人が初めてのデートをした日曜日。その後の日曜日は来ていない。今日は、いったい何曜日なのか!?
 驚愕する理樹の目の前で夜のとばりの中で、その日の深夜0時、時計のカレンダーは21という数字に確かに切り替わった。だが、世界にとってその日付変更も無かったことになる
 じゅうぶんに注意深く、非常につぶさに、些細な言動や風景の変化に注意して見てみよう。世界は、唯子が理樹に恋をしたその日から狂い始めているのだ。さらに、唯子と理樹の周辺からリトルバスターズはちりぢりに消滅していく。決して、二人の仲を邪魔しないように遠慮しているわけではない。明らかに、10人いたはずのメンバーが、PCであったはずのみんなが、NPC化している。恭介は出てこない。真人は真人として会話していない。その他全てのクラスメートが、ただ、背景としてコンピューターにしゃべらされているような会話を続けているだけだ。理樹の疑問も通じない。彼らはすでに、思考のない影になっているのだ。雪が降ろうが世界が6月20日を何回繰り返そうが、おかまいなし。ここには、来ヶ谷唯子と直枝理樹という二人のプレイヤーしか、もはや存在していない
 この徹底的に異常な事態を解明するにあたって、何を解法の突破口とするか? 僕は考えた末に、唯子の記憶喪失と世界が事実を無かったことにしてしまう事態とが完全に連動一致している点に着眼した。つまり、唯子が日曜のデートの記憶をなくしたとき、世界は日曜にあったできごとを無視し始める。唯子が理樹の告白を忘れてしまったとき、世界は二人がつきあい始めたという非常に大切な事実を忘却してしまう。あんなに二人の仲を応援して花火まで打ち上げてくれたリトルバスターズのメンバーがそろって、すっかり忘れてしまうのだ。いや、そもそもそんな事実はなかったこととして、世界そのものがふるまいはじめる。そしてきわめつけ、記憶の保持が全くできなくなった唯子は、6月20日に起こった出来事を翌日まで覚えていることができない。従って、それと連動する形で、世界は延々と6月20日を繰り返し始める。直枝理樹の視点で見ると、時間は確かに流れているのだ。昨日あったことと今日の出来事とは違うことが起こっている。しかし、前に進むことはない。確かに、同じ6月20日という設定の時を、世界は繰り返している。そう、時はそのように設定されているのだ。何者によって設定されるのか? 何者が繰り返しているのか? いや、そもそもこれは誰の「夢」か??
 勘のいい人はもう気づいていてくれていることだろう。これは、来ヶ谷唯子の「夢」なのである。そして、「リトルバスターズ!」の「夢」ではなくなっている。どこかですり替わっていたのだ。だから、そこにいつのまにかPCであるリトルバスターズのメンバーはいなくなっていて、何もかもが唯子のメンタル性に依存する異常な世界に変わり果てている。そう、気象さえも! 日付さえも! 唯子が忘却するものは全て消える。ああ! では、この世界の直枝理樹はどうなるのか? 彼はPCだが、プレイヤーとして参加していても、キャラクターを構成しているのが唯子である限り、この世界の理樹はエイリアスにすぎず、唯子が彼のことを忘れてしまえば、世界に参加するための己のキャラクターを失ってしまう。強制的にログオフされてしまうのだ。世界に降り積もる雪は、何もかもを白く埋めていく。唯子は、この世界を真っ白にぬりつぶしていっている。全てを忘却しようとしている。この世界、すなわち唯子と理樹の二人だけがPCとして参加するプライベートな世界のことを彼女が完全に忘れれば、何もかもが存在しなかったことになるのだろう。もうその時はすぐそこに。愛し合う二人の姿は、白の世界に溶けて……
 では、なぜ世界は終わるのか。
 繰り返し申し上げる。唯子は、「恋」のできない少女なのだ。
 彼女自身が顕在意識下でどんなにか「恋」を続けたいと思っても、その先の関係を望んだとしても、彼女の無意識下、潜在せる来ヶ谷唯子の本質的な暗がりが、恋愛の継続を拒否している。彼女は怖いのだ。それは、「恋」にまつわる記憶の喪失という形で拒絶反応として現れる。都合の悪いことに、二人が恋をした世界は、いつの間にか唯子のプライベートな「夢」にすり替わってしまっている。だから、唯子の潜在意識が記憶消去を行うのと同時に、「夢」である世界全体も事実として起こったことそのものをまるごと消滅させてしまう。その内部でPCとして行動していた直枝理樹は、事象のつじつまが合わなくなっていることに気づきはじめ、特に唯子と彼との恋愛にまつわる出来事が全て無かったことにされてしまう不自然な世界に翻弄され、強烈な疎外感を覚えることになってしまったのだ。唯子の方も、自分が記憶の一部を失っている状況に気づきはじめ、メモを取ることで理樹との会話のつじつまを合わせようと努力するが、結局彼女自身、自分の心の底で起こっていることをどうすることもできなかった。そして、この世界が彼女の「夢」であることを理解していて、それが自分のせいで消えて無くなろうとしていることを承知していたのである。哀しい少女は、ただ恋人にあやまるより仕方がなかった。
 それでは、唯子が「恋」をできない少女である論拠とはどこにあるのか? あの、何でも余裕でこなし、年齢以上に大人びた、いつでも自信たっぷりに見える彼女が、どうして今更「恋」ごときを怖がるのか? 
 それに対しては、こう答えたい。これこそが長い文面を通じてもっとも言いたかったことだ。
 「リトルバスターズ!」における来ヶ谷唯子とは、本当の彼女がかぶっている仮面にすぎない。つまり、「夢」の始まりに於いて、自分がこの世界に参加するにあたって、自分専用のプレイキャラクター(エイリアス)をデザインするにあたって、本来の来ヶ谷唯子とは全く違う印象の、違う性格付けの、わざとかけ離れた言動の、しかしながら心の底に抱いていた理想の自分というものを創作したのだ。だから、我々の知っている来ヶ谷唯子は本当の来ヶ谷唯子とは全然違うものだったのだ。「夢」はそもそもネットワークゲームのようなものなのだから、自身をリデザインすることも可能であると考えるべきであろう。そうすると、他の9名の参加者は、なぜ、本来の自分を理想的な形でリデザインしなかったのか? という指摘が入るかもしれないが、それについては、「お互いを現実世界で知っている間柄である以上、ゲーム内の自己のデザインもそれに準じる必然性がある。多少の美化はともかく、極端に違うキャラクターにはできない」という形で答えておきたい。要するに彼らは、いつも顔を合わせていたクラスメートなのだ。みんなが知らないキャラクターを突然提示して、それが自分だと主張することはできない。そう、それで納得。ならば何故、来ヶ谷唯子だけが自分のキャラクターをリデザインできたのか? 何故、本当の自分と違う顔をもって、「リトルバスターズ!」に参加することができたのか? 何故、彼女だけにそんなことが許されるのか?
 簡単だ。唯子は、元々直枝理樹のクラスメートではないのだ。
 
唯子の仮面
 
 ここであらためて思い返してみたいことは、来ヶ谷唯子ED1のことである。唯子ED1では、彼女の姿は「リトルバスターズ!」における派手なお姉さんスタイルとは異なるということを指摘した。僕は、このED1に出てきた唯子こそが、本当の唯子に近いイメージなのではないかと考えている。この世界では、彼女は一人きり。窓辺で静かにピアノを弾いているが、他に誰もいない限り、ここで彼女が自分の姿を偽装したり粉飾したりする理由はない。清楚な帰国子女であるお嬢様としてのリズベス。それが、彼女のリアルな姿だろう。そして彼女は孤独なのだ。一人きりなのだ。いや、もっといえば、来ヶ谷唯子一人きりでも世界は成り立つ。そのことを証明している。
 このシーンは「現実」ではない。唯子の「夢」である。当初、現実世界である可能性を考えてはみたが、それはありえないだろうということがだんだんわかってきた。何故かというと、この世界で彼女の携帯には直枝理樹からのメールが入っているからだ。「夢」から「現実」へ、メールが届くことはない。「夢」で発信されたメールが届く先は、必ず「夢」である。また、「リトルバスターズ!」以前の現実世界で、直枝理樹と来ヶ谷唯子が恋をしたという可能性も全くない。そうであるならば、「リトルバスターズ!」というバス事故以後の夢は、唯子との恋愛の継続で埋め尽くされたからである。だとすると、ED1の唯子一人きりの世界、直枝理樹の居ない世界は、「リトルバスターズ!」の「夢」以降の世界であり、「リトルバスターズ!」で受けたメールの内容を、彼女の無意識が一人きりの「夢」の中に再構成した結果、彼女の携帯には理樹のメールが残っていたということになる。だから、彼女は彼をここで待ち続けているのだ。
 さらに思い返してみるべきことがある。「リトルバスターズ!」という「夢」の中にあって、来ヶ谷唯子は直枝理樹に恋をした。その時限より、二人を取り巻く世界はいつの間にか、ふたりだけのプレイヤーの世界に変貌・すり替わってしまったということを先の議論の中で指摘した。そしてそこは、唯子が生み出した「夢」なのだということも書いた。二人だけがPCであり、他の全てのキャラクターは知らぬ間にNPC化していた。やがてこの世界は唯子の記憶の消滅と共に真っ白な雪に象徴された空白で埋め尽くされ、まるごと消えてしまうのだが、もしこの「夢」の成立に直枝理樹少年も関わっていたとしたら、最後まで記憶を失うことのなかった彼は、なんとか一人ででも唯子との愛の世界を維持しようと努めたことだろう。しかし、為す術もなく世界が消滅したということは、唯子の語るとおり、この世界は彼女が一人で作り出した「夢」である。世界は来ヶ谷唯子一人きりの力によって成り立っている
 もう一つ思い返してみよう。この「夢」が発生している最中、放送室ではずっとピアノの音色が鳴っていた。だから学校中どこへ行っても、ピアノの音が理樹の耳に届いていた。直枝理樹はこのピアノの音色の異常に気がつき、それが世界の異常の原因であると感じて、なんとか音を止めようとした。だが、放送室の機材のコードを全て引きちぎっても、流れ続ける音を止めることはできなかった。ピアノを弾いている人間もどこにも居ない。なのにいったいどうして、このピアノはきこえつづけるのか? 哀しいピアノの音は、なぜ彼の耳にのみ届くのか。どこで鳴っているものなのか。
 ED1を見ればおそらく想像がつくことに違いない。理樹と唯子の「夢」の世界で聞こえていたメロディーは、この場面で唯子が一人で弾いていたピアノの音なのだ。唯子がたった一人でいる別世界の音が、二人だけの世界に流れ込み続けていた。だから、ここでも、唯子の無意識が鳴らしていた音なのだということができよう。それは「夢」そのものの一部であり、直枝理樹には残念ながら唯子の「夢」に介入する力がない。だから、理樹は音の出所を突き止めることも音楽を止めることもできなかったのである。ピアノは、唯子の孤独と哀しみの具体として、象徴的に現れているものに違いないが、ED1で鳴っている音が別の世界である理樹と唯子の二人きりの世界で鳴り続けているということと、二人の世界が消滅した後にED1の世界が顕わになるということは、それを説明しようとするとこういう結論になるのではないか。
 元々あるED1の唯子一人だけの世界の中に、もう一つの理樹と唯子の世界は成り立っていた。別の言い方をすれば、はじめに唯子の一人きりの「夢」があり、その上側に乗っかる形で、もう一段、唯子が作り出した理樹との「夢」世界ができあがっていた。世界内世界、あるいは世界上世界という、二重構造で「夢」は成立していたとして。その「夢」は全て来ヶ谷唯子の「夢」である。「夢」は、唯子がいれば成り立つ。(唯子が忘れれば、消える。)そして、唯子の「夢」には、誰か別の人間の意識が参加可能である。直枝理樹はそういう形で、唯子と二人、「夢」世界を共有していた。だとすれば、唯子の「夢」にもっと多くの人の意識が集まれば、小鞠や鈴やクドや葉留佳や美魚がやってきてお泊まり会を開けば、そこに現出する共同幻視世界とはすなわち、「夢」のシェアリングハウスである。さぁ! 直枝理樹少年を女子寮に招待しようではないか。お菓子を用意して楽しいパーティーを!! 夜通し騒ごう!!!
 ぼくらはすでにその光景を知っている。 
 
「リトルバスターズ!」
 
 結果、だいたいこのようなBGストーリーを想定してみた。
 まず、はじめに来ヶ谷唯子、その人の一人きりで見る「夢」が存在した。彼女はずっと学校の放送室で、ピアノを弾いている、そんな「夢」だった。とても寂しい「夢」。現実世界の彼女は、目覚めることがない。だからずっと独り、「夢」を見ている。終わらない「夢」を見続けている。(「まえだじゅん」作品の定番設定)
 修学旅行のバスが崖から転落し、爆発する。多くの生徒達の魂が肉体を失って虚空をさまよう。むき出しになった潜在的無意識どおしがチャネリングしあい、意識の波紋と波紋が重なり合い共鳴し、集合的無意識と呼ばれる共同場を集団的に構成する。
 長い長い「夢」を見ていた来ヶ谷唯子は、遠い空間を隔ててこの生徒達の意識とトランス交信を行う。彼女は自分の見ている「夢」の上層にもう一段高次の仮想世界フィールドを提供し、共鳴した9人の生徒達の意識と共に「夢」世界のシェアリングを開始する。
 棗恭介がリーダーとなって、「リトルバスターズ!」が作られる。この世界の細かいルールは彼が決めている。しかし、それが成り立つフィールド場は、唯子が提供している。
 棗恭介が一学期の学園生活を完全再現しはじめ、その中で鈴と理樹を鍛えようとする。唯子はそれを外側から見ていたが、やがて興味をそそられ、自分もリトルバスターズに参加し始める。ただしその際、唯子は自分というキャラクターを本来の自己とは異なる性格付けにし、虚勢を張った人物に作り込んで仲間に加わる。また、クラスメートにとけ込む為に、はじめから自分がみんなと同じ教室に居た存在だという疑似記憶を全員に持たせる。従って他のリトルバスターズのメンバーあるいは教室の同級生は誰一人、彼女がそこにいる違和感を感じていない。ただし孤独癖の片鱗は姉御に残っている。教室ではいつも一歩引いた謎の存在である。
 やがて、何度かの「リトルバスターズ!」を繰り返すうち、唯子は直枝理樹に「恋」してしまう。二人の世界を望んだとき、彼女の別世界(放送室)が始まって理樹を取り込み、他のメンバーはNPC化されてしまう。
 しかしながら恋愛への罪悪感と恐怖心から、せっかく作られた理樹との愛の巣を唯子の無意識が破壊してしまう。唯子は「リトルバスターズ!」での全記憶を喪失し、はじめに見ていた独りきりの「夢」の世界に戻る。ただ、わずかな記憶の断片が、彼女の携帯にメッセージを残す。それを懐かしい気持ちでながめながら、彼女は永久に来ない人を初夏の風景の中で待ち続ける。>ED1
 直枝理樹が新生リトルバスターズを結成し、恭介他を救って、世界そのものを再構築する。結果、二学期が始まり、みんなの教室が帰ってくる。唯子もクラスメートとして復活しているが、事故の記憶はない。彼女は事故に遭っておらず、その詳細を知らない。「夢」の中でも語れない。
 「リトルバスターズ!」回想。記憶喪失した唯子がその時の理樹との約束を覚えていれば、ED2において彼に自分から告白する。
 ・・・以上の通り振り返ってみると、「夢」そのものを見る「場」を提供しているのはどうも来ヶ谷唯子なのではないかということがうすうす想像されてくる。そもそも唯子ははじめから、「夢」を見ていた存在くさい。また、クラスメートではない予兆をにおわせるシーンがとても多い。彼女についての情報にはたいてい何らかの疑似的バイアスがかかっているっぽいのだが、それもこれも「夢」の提供者だとしたら納得がいく。特に、理樹と「恋」してからというもの、世界が消失するまでの影響力をもつものとしては、彼女の存在は完全にユニークである。あるいは世界消失後も彼女は自分の世界を持っていて、「リトルバスターズ!」とは独立している。「夢」の基本体を担うにはもっとも適した位置にあると考えて良いのではなかろうか。さらに、Epilogueにおいて、バス事故というリアルを全く語らないところが決定的だ。彼女だけが何の怪我も後遺症をも負っていない。明らかに事故とは無関係なのだ。なのにこのクラスにいるということは、彼女が外部世界からみんなの「夢」を支えているというバックグラウンドが透けて見えるのではないかと思う。少なくともバスに乗っていた同じクラスメートだったということは考えられないだろう。(ただしこの主張は今のところ誰にも賛同を得られていない)
 
<整理>
 
 本当の唯子は、ED1の唯子である。夢1
 リトルバスターズのはじまりにあたって、恭介の呼びかけに唯子も共鳴した。
 クラスメートという設定で本当の自分とは違う仮面をかぶって参加。夢2
 やがて理樹に恋をしてしまった。夢1が介入し、中間形態を生じた。夢3
 しかし、自らの潜在意識が夢3を破壊した。夢3消失。
 すると、記憶喪失状態で元の夢1が残った。ED1
 直枝理樹が世界を再構築した。唯子もサルベージされた。夢4
 夢4の後、夢2を記憶再生。リプレイ後、理樹の名前を覚えている。ED2
 
 夢1 において、はじめから世界を持っていた唯子 
 夢3 において、世界を終わらせた唯子
 夢4 において、事故にあった形跡がない唯子 非クラスメイト
 夢2 において、クラスメイトを詐称 記憶バイアス=疑似記憶
 以上から、夢1234全ての原因者としての唯子が浮かび上がる
 
時間遡航
 
 来ヶ谷唯子その人について、ずいぶん紙数を費やしてしまった。これほど唯子にこだわるつもりはなかったのだが、その存在のユニークさは傑出していて、世界の謎に大きく関わっている気がしたので、彼女の実際的な立場を詳細に検討してみた。むろん議論は想像にすぎず、本当はそうでない部分も含むだろう。ただ、共時性幻想ともいうべき集合的無意識下におけるこの特別な「夢」の成り立ちを考えるとき、どうしても唯子という特殊な人間を与えないと解法が出ないと思った。恭介が「その理由はわからない」と言っている以上、みんなの「夢」の成り立つ場が残り九人のうちの誰かの意識の元で提供されているんじゃないかという思考は自然なものだと思うし、そうなると最もユニークな来ヶ谷唯子に白羽の矢があたるのも無理からぬことだろう。そういう前提の元に、世界の成り立ちを一通り整合的に想像してみた。だが、その結果彼女に関してはいくつもの重層的な「夢」が出てきてしまうわけで、そういった面ではなかなかすっきりしない議論ではあるかと思う。素直に作品をとらえる人の中では、「リトルバスターズ!」の「夢」の中に唯子の「夢」があり、それが失敗したのちに彼女が一人きりの「夢」をさらに作り込んで閉じこもってしまったのではないかと一般的にとらえられているようだが、それはそれで時制のこととかピアノの音とかいろいろな矛盾を引き起こすような気もするので、一概にこれという解答は与えることはできないだろう。さらなる検討を要する。
 さて、唯子のことはこの辺にして、もう一人の、彼女に匹敵するかそれ以上に世界の秘密に関わっていそうなスーパーヒーロー、棗恭介についての分析を行っておきたい。いわば、その時彼の身に何が起こったのか? だ。
 全てのことの起こりは、恭介達の乗った修学旅行バスが崖から転落してしまったことだった。相当な高さからのひどい事故だったらしく、バスは大破し、中に乗っていた生徒達はほとんどが生死不詳なまでに打撲を負った。多くが転落の衝撃で重傷となり、自力でバスから出られないような状況だったが、さらに最悪だったのは、タンクから漏れだした燃料に引火、爆発を起こしたことだ。そこから逃げられた生徒は一人もおらず、全員が爆死した。これが、事実としてのことの顛末である。
 その、全員死亡の刹那、生徒達の肉体から漏れだした盲目の意識がこの世への未練となって滞留し、互いに呼び掛け合う。意識の波紋と波紋が重なり合い、やがて共鳴を起こし、お互いにこたえあう。それは、集合意識下の奇跡だ。棗恭介の叫びにこたえた者達が気持ちを寄せ合い、心と心が混じり合い、そこに奇跡の「夢」を現出させる。「リトルバスターズ!」という「夢」。それは若くして去らなければならなくなった彼らが、この世に残した想いを成し遂げるため、それぞれが死の間際でもう一度自分の生きてきた世界を再現し、心の喪失を埋めていくための儀式の場であったと言えるだろう。彼らの死が決したその刹那の無時間的なトポスにおけるスタティックな点、そこで意識を無限に循環させることによって、それぞれの過去を取り戻すための長い旅が始まっている。彼らは死の瞬間の止まった時間の上にずっといながら、自らの世界をイメージし続ける存在である。
 棗恭介は妹の鈴と学年が違うが、一緒に旅行に行きたくて、不幸にも事故を起こした修学旅行のバスにこっそりもぐりこんでいた。おそらく車内ではなくカーゴルーム辺りにいたのだろうが、衝撃でバスから投げ出され、少し離れた位置に転がっていたものと思われる。結局バスの爆発の熱風と衝撃で彼も死を迎えたわけだが、その最悪の結果にいたる迄の状況をバスの外から見ていたおかげでかなり正確に把握できていたようだ。そして、みんなが奇跡の「夢」の時間を繰り返している間に、彼は過去への「抜け穴」をみつけ、バスが爆発する少し前の時間へと、現実帰還する。それこそ、驚くべき恭介の超力であり、「夢」の実現よりもさらにリアルな奇跡だったと言えるだろう。いったいそれはどういうことなのだろうか?
 つまり、彼は自分が死んだ地点において、わずかだが時間遡航を行い、まだ死んでいない刻へと舞い戻ったのである。そんなことが可能なのか。いったいいかなる方法で、「抜け穴」はみつけられたのだろうか。きっと、多くの人が彼の起こしたこの奇跡に当惑していることだろう。
 実はこうした事象というのは今に始まったことではない。基本的にはそれが、「まえだじゅん」の書くシナリオのほとんどに特有の現象であり、彼の思考の前提だということに気づいておかなければならないと思う。「まえだ作品」においては、これまでも繰り返しこのテクニックが導入されていると考えられるからだ。彼は物語の骨子を考えるにあたって、すでに終わってしまった時間、すなわち悲劇的結果の側からストーリーをスタートさせる人間だ。それゆえに時間的構造性ということを常に意識していて、直線的な時間的デザインではひもとけない難解な構成で世界観を組み立てる。そこで必要とされる時間遡航の技はたいていパターンが決まっていて、それはすなわち、主人公の魂の「転生」によって成し遂げられてきたと考えられる。
 リ・インカーネーション……人の魂が生死の区切りを超えて何度でもこの世を循環する。それは、「まえだ文学」の前提である。彼の過去の作品において、このシステムが着想として取り入れなかったことはまずないだろう。それは人の魂の存在の前提と再誕の可能性、そして次世界への記憶継承がセットとなっている。これらを受け入れられなければ、結局「まえだじゅん」を理解することなど不可能なのだ。特にAIRのストーリーなどは、その最たるものだっただろう。「転生」の概念そのものは割とポピュラーであり、よくドラマなどに使われるファンタジーのテクニックなので、多くの人に既になじみがあることと思う。要は生まれ変わりということに他ならない。だから生まれ変わった先で、過去の時間の記憶が残っていたりすると、それは「転生」として解釈される。しかし、僕が以前より至極感心しているのは、「まえだじゅん」の場合、誰かが「転生」をするのは未来へではなく、過去へなのだ。つまり、過去のある地点、その本人が過去に居た現実のその場所へと生まれ変わる。AIRという作品を思い出していただければ明解だと思うが、主人公の男が過去にヒロインと出会った場所へ、カラスとして「転生」していた筈だ。未来へでは意味がない。過去を取り戻すために、「転生」する。「まえだじゅん」のストーリー作りの骨格とは、最愛の者の喪失であり、取り戻せない絶望であり、自己のどうしようもない無力感であろう。物語の動機はいつも、そこしかない。そして彼が、この喪失感を取り戻す方法とは、「転生」による過去への時間の巻き戻ししかないのである。「ONE」が、「Kanon(舞シナリオ)」が、「AIR」が、「CLANNAD」が、今まで全てそうした手法で成り立っている話しであることに気づいてくれているだろうか。つまり、「リトルバスターズ!」でも、やはり、「まえだじゅん」は起こってしまった時間を巻き戻そうとしている。みんなが死んでしまった、その停止した時間内の事象が「リトルバスターズ!」の「夢」ならば、そこからの離脱はいかなる方法によるだろうか。彼らはもう、死んでしまっているのだ。その確定してしまった結果からスタートする限り、棗恭介の取れる方法は、過去の自己自身への「転生」という手法しかあり得ない。つまり過去へ生命を再生させることで、恭介はバスが爆発を起こす前の時間へと戻っている。ただし、生まれ変わると言っても、赤ちゃんからやり直すわけではない。ある決められた地点へ今の自分の意識を飛ばす、そういう性質のものだ。また、「転生」を行える場所というのは、過去にすでに起こった事象のその地点に限られる。特に自己自身へ「転生」を試みる場合には、自身の過去のある任意の時間をしか選べない。過去を書き換えるとしても、変えられるのは転生後の事象である。すなわち、過去に自分が実際に居た場所にしか飛べない。自分が居なかった場所に飛ぶことはできないのだ。それが、単純な時間旅行との違いである。あくまで、自身の時間を「遡航」するのだ。
 

こうして恭介が再び現実の世界に目覚めた地点とは、自分が死んだ同じその場所であるが、わずかに過去へ巻き戻した時間上の地点であった。まだ爆発は起こっていない。そして、真人や謙吾が身を挺して鈴と理樹を守ってくれたことを彼は「夢」の中で知っていたし、爆発を止めて猶予を授ければ、この二人だけは助けることができるのだと考えていた。そこで、漏れだしている燃料タンクのところまで必死に這っていく。無限とも思われる時間を費やして。これが最後の自分の仕事だと内心に言い聞かせながら。

 

 

 

 
つじつまあわせ
 
 問題はそこからで、恭介が現実世界でどんなにがんばってみても、彼が眠ってしまうと元の位置に戻されてしまうのだ。つまり、どれだけ這っていってもわずかばかり休憩して眠りこけただけで、彼が元々転がっていた場所に、いつのまにか戻ってきてしまう。全身疲労困憊でとても眠らずにいることができない彼は、それを知った時、絶望的な気分に駆られる。何度も何度も数限りなく振り出し地点に戻されながら、それでも歯を食いしばり諦めずにまた、バスを目指す恭介の執念の描写は、たいへん鬼気迫るものがある。どんなに同じ時を繰り返そうとも、どんなにつらくても、けっしてくじけず諦めないという信念の持ちようが流石にリーダーというか、男としてできている。恭介ならではのこの世の最後の生き様のように思える。さて、いったいここで何が起こっているのだろうか? 過去に起こった事象を書き換えることに、世界が抵抗しているのだろうか?
 恭介が現実世界で眠るということは、「夢」世界に戻ってくるということだ。そこでは「リトルバスターズ!」のストーリーが繰り返されている。現実世界にとってそこはどこに位置するかというと、バスが爆発した地点、その刹那・瞬間において、制止した時間の刻点の中で、魂の生と死の境界上で、生徒達の無意識の共同体が「夢」を担っている。だから、「夢」が見られている時間とはすなわち、永久に動かざる点である。棗恭介が死亡した時点、これを時間Bと置いてみよう。彼は、おそらく自己転生という手段を使って時間遡航を行い、バスが転落して投げ出された直後の地点にやってきた。これを時間Aとする。時間Aにいる彼は、時間Bに致るまでに地を這い、バスの破れた燃料タンクのところへやってこようとする。しかし、その途中で「夢」を見てしまうということは、「夢」そのものが時間Bの地点で停止しているゆえに彼の魂も時間Bに強制的に移動を余儀なくされる。すると、何が起こるのか。時間B、つまり爆発の起こった時点では彼の肉体は本来、バスから投げ出された崖下の地点にあらねばならないので、つじつまを合わせるために世界が彼を、時間Bの位置に連れ戻してしまう。
 いや、世界が彼自身に干渉しているという表現は適切ではない。事象を書き換えたことについて、世界がそれを怒って元に戻してしまうということではないはずだ。(恭介は勘違いをしているが、この事態は彼自身が招いたつじつまあわせなのだ。)世界は、恭介一人にそれほどかかわずらってはくれないだろう。本当のところ、こういうことだ。恭介は、転生によって過去の自分に遡航した。しかし、眠ってしまうことで、「夢」をみている彼の肉体位置にまた転生(移動)してしまう。そういうことだ。
 すなわち、恭介が「夢」を見ているとき、彼の肉体は現実世界で必ず彼が死亡した位置にあらねばならない。だが、彼は既に死んでしまっているので「夢」を見た後はそこで目覚めることはできない。再び現実世界に目を覚ますということは、さらにまた転生(時間遡航)によって過去(バスから投げ出されて転がった位置)へ戻るということなのだ。過去へ転生する。バスの元へ這っていく。「夢」を見る=「夢」の位置に転生する。「夢」から目覚める=過去へ転生する。この、同じ繰り返しの中に今、恭介はいる。転生という概念が大がかりすぎるならば、意識の時空を超えた移動ということでもいい。いずれにせよ彼の魂が肉体位置を離れてぐるぐるとめぐりめぐっているということに他ならない。
 問題の所在は、要するに恭介が、現実世界でどんなに這っていっても、眠るときにその場所で自分の「夢」を見られないということなのだ。必ず「リトルバスターズ!」へと還ってきてしまう。しかし、「リトルバスターズ!」が存在する位置というのは、恭介が努力して世界の事象変更を行った世界以前の、悲劇の世界である。ここへ戻ってくるということは、せっかく変更した事象世界、枝として分岐した世界、爆発が起きないかもしれない世界を、自ら破棄してしまっているということなのだ。ならば、どうすればいいのか。恭介は悩んだ末に、「夢」が始まってしまった「死」をやり直すのである。「死」こそ始まり、スタート地点である。
 爆発による「死」が「リトルバスターズ!」を生んだ。今、バスの燃料タンクのところまでたどり着き、燃料の漏れている穴を上着でふさぎ、背中越しに押さえ込んだ彼は、ガラスの破片を自らの胸につきたて、すさまじい激痛の中でリアルな「死」を迎える……。願うこととは、ここから始まる、新しい「リトルバスターズ!」の開始、だ。それは、彼がリーダーとなって作る世界ではない。生きている者達が、「リトルバスターズ!」を作る。未来へ続く、終わらない「リトルバスターズ!」 を!!
 願いはどこへ届くのか。彼の魂はどこへ向かうのか。今、「リトルバスターズ!」の仲間達が一人一人、この終わらぬ「夢」の世界から去っていく。「夢」を見ている最後の人がいなくなったとき、静かに世界は幕を下ろすのだ。教室に残ったリーダーは、穏やかに終末の時を待っている。Epilogue
 
直枝理樹と宇宙雲
 
 「まえだじゅん」は第一級のSF幻想作家なので、時々めちゃくちゃな展開をストーリーに与えたりするのだが、この後の直枝理樹のお話しというのは、本当に解釈不能な宇宙へと突入してしまう。そもそも、「リトルバスターズ!」とは本来、恭介の努力によってバスがすぐには爆発しない時系列に導かれた理樹と鈴が、現実に目覚めた末に二人手に手を取り合って悪夢の事故現場から脱出し、その後の世界を前向きに強く生きるというストーリーだったはずだ。「まえだじゅん」という人はおそらくキャラに過剰な愛情を抱く方ではないから、過酷なストーリーを特に厭わないし、完全なハッピーエンドというものも本来好まない。ストーリーテラーとしては割と毒のある方だと思う。そういう彼だからいったんは、直枝理樹が病室で鈴と二人きりで居て、「これから二人だけで強く生きていこう」的な誓いとともにストーリーを終わらせてしまっている筈なのだが、どういう大人の事情かわからないがその後のどんでん返しをとって付けたように追加してしまっている。そして、この先へ進むか否かは、受け手の選択にゆだねている。ずるいといえばずるい逃げの方法だが、マルチエンディングゲームという性格からいって、コンプリートするまではシナリオを追うのが必然だし、どの選択肢を選ぶにせよ、全ての可能性をひっくるめた上での作品評価というのはさけられないだろう。そうした意味で、これ以下のシナリオはなんじゃこれはという感じで、ちょっとどうかと僕は思っている。だが、いくら苦痛を覚えたにせよ何が起こっているのかを読まないわけにはいかないので、この後の直枝理樹のたどった運命についても少し触れてみる。これ以降は何一つ確証がない想像の領域なので、その点は許されたい。
 鈴とふたりきりの病室で、「これでいい」と「よくない」の選択肢が出てくるが、「よくない」の方を選ぶと、この病室の光景そのものが未だ「夢」であったというオチになり、直枝理樹は自己の精神の深層へとダイブする。そう、心の地層の深層にもぐり、ナルコレプシーを発症する原因となった時代まで、心の中の時間をさかのぼる。それは、記憶遡航である。理樹が突然眠ってしまう理由。眠っているときに夢を見ない理由。それは、幼い頃に両親を亡くしたショックから、成長後も突然その時の光景に戻ってしまうためであった。また、その内容自体彼は抑圧しているので、フラッシュバックした光景を彼の意識は無で埋めてしまう。そのため、目覚めても何も覚えていなかった。それらは彼の深層意識が為す負のアンカーだったのだ。これを引き抜き、理樹の意識はさらに深みへと還元する。彼が生まれる前の光景、宇宙のチリが眼前に展開する。精神と肉体が量子崩壊し、統一場還元した末の宇宙意識の素体。エネルギーそのものに還りながら、彼はこの、生まれる前の世界のまどろみに深い安らぎを覚える。ずっとこのままでいたい。そういう気持ちになるのだが、記憶の残滓がそこに少女の影を映す。そうだ。僕は彼女に会いたい。そしてあの人たちにも……。
 気がつくと、直枝理樹はバスの転落事故後の、恭介が自分の肉体を犠牲にして時間を稼いだあの、事象が変更され、新しくスタートした世界に目覚めていた。
 今、僕はこの、直枝理樹が再び目覚めた世界のことを考えている。
 まず、何故彼はここへ導かれたのか。
 それは「夢」が終わったからだ。
 彼は「転生」したのか?
 YES。直枝理樹はいったん死んで、生まれる前の世界にもダイブして、そして目覚めた。恭介と同じ「抜け穴」を通って、ここへきている。
 だが、約束事が守られていない気がする。自己転生による時間遡航ならば、過去に自分が存在した位置に、意識が戻る。しかし、直枝理樹が目覚めたのは、恭介がバスの燃料タンクを塞いで爆発を遅らせた、現実世界の異なる事象系列。すなわち、理樹が生きてきた時間軸とは別の系列である。恭介が作り出した枝なのだ。これがリアルだとすると、彼は、自分が実際には生きてこなかった、もしもの世界に転生したことになる。そのようなことは可能か? 僕の認識ではNOだ。やはりこの話しはおかしい。どこかで間違っている。
 問題はもう一つある。この先、理樹と鈴の奮闘で、事故に遭った生徒達は全員救出される。ほとんどご都合主義的に、ありえない出来事だ。もしそんなことがあったとしても、棗恭介だけは救えない筈である。なぜならば、この事象系列は、恭介が死ぬことで、起こりえた現実世界。ここで彼が死んでいないとしたら、「リトルバスターズ!」の「夢」は終われない。全ての前提と約束事が崩壊してしまう。
 整理しよう。「夢」から「夢」への転生(移動)は可能か? 
 YES。その「夢」がなくなっても、別の「夢」があれば、本人の気づかないうちにでも移動が可能である。それは来ヶ谷唯子のシナリオで、理樹がいつの間にか唯子の作り出した二人だけの「夢」に移動していたことで証明されている。ただし、唯子−内−夢において。
 つまり、直枝理樹は、別の「夢」に移動したと考えられる。鈴も同様についていっている。ならば、この事象系列の「夢」を作り出せる者とは、棗恭介しかいない。彼が燃料タンクをふさいでいる光景を知るものは、他には居ない。その情報を彼以外、誰も知らない。直枝理樹はこの場で、恭介が身を挺してバスの爆発を食い止めている光景を目撃している。これが現実世界ではないと仮定するなら、それは恭介の「夢」でしかあり得ない。確かに、恭介は死の直前、循環する「夢」を終わらせることを願い、別の「夢」を見ていた。理樹と鈴がみんなを助けようと奮闘する「夢」……。
あの『一瞬』をこの手でもう一度ここで再現する。
そうして俺は新しくこの場所から参加する。向こうの世界に。
だから、ここが新しいスタート地点となり、俺はここに居続けられる。
(中略)
世界の始まりをもう一度我が手にするために。  
 恭介は、自分が再び死ぬことで、世界をもう一度始めなおしたのだ。あとは、「リトルバスターズ!」がかつて始まった時と全く同じ事象が生じたのだろう。「夢」は間違いなく、棗恭介その人のものである。彼の「夢」である限り、彼はいつか帰ってくることだろう。もう一度修学旅行をみんなでやり直すために。

 Jumper 準備はもういいかい?  さぁ幾千の星に今のみこまれていくんだ

「リトルバスターズ!」は、初めから最後まで、徹頭徹尾「夢」のお話しであったと僕は結論づけたい。誰も、「現実」へは還ってきていないのだ・・・。来ヶ谷唯子がそこに居る限り、まだ終わらぬ「夢」の世界を彷徨い続けているのだと言えるだろう。

そしてこの物語では、唯子が目覚めることは決してないのだ。

 

あとがき(省略)

2007.12.28

 

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