瀬川あおい
今日、りりかが泣いた。りりかは気の強い、ちょっとしたことでは泣かない
ような女の子なのに、その彼女がわんわんと声を上げて泣き出してしまった。そ
れを見ていて、やっぱり彼女は小学生の女の子なんだって認識を取り戻したのだ
。うっかりしていると忘れてしまう。僕らの正義のナースエンジェルは、まだ年
端もゆかない、いたいけな少女だってことを。一つの疑問は、どうして地球の平
和を守るという甚大な責務を、彼女がたった一人で一身に引き受けなければなら
ないのか、ということだ。どうして全ての重圧が、果敢な敵の攻撃が、彼女に集
中してしまうのだろう。りりかは普通の女の子……だとしたら、彼女をナースエ
ンジェルたらしめている運命とは一体なんなのであろうか。小学校四年生の子供
にとって、それは過ぎた役割なのではないのか? あまりにもかわいそう過ぎる
。
思えば、りりかはここのところ毎週のように泣いている気がする。泣いて泣
いて、泣き崩れて、学校も友達も家族も、外界の存在の何もかもが目に入らぬく
らい思い悩んで、自己崩壊を起こしかけている。幼馴染みの星夜がいつも側にい
てくれることで辛うじて正気を保ってはいるものの、その唯一の信じられる「味
方」の声すら、りりかの意識に届かなくなることしばしばである。何もかもがハ
ードなのだ。これでもか、これでもかという位に、りりかは精神的・肉体的にい
たぶられている。希少な緑のワクチンを消耗しながら敵を倒し、あまつさえ心を
癒し続ける無限の戦闘の中で、いまだ命の花を見つけられぬ絶望に近い状況下で
、今のりりかはもう、立っているのがやっとではないかという印象を拭えない。
変身に躊躇する時、彼女の中で、今度こそナースエンジェルは敗れるのではない
かという予感が沸き上がっている。この変身が果たして、敵を完全に倒すことに
つながるものなのか? ナースエンジェルになることでの絶対的優位性というも
のが、実はどこにも保証されていない……この辺が、他の戦闘少女ものとの根本
的な相違なのだ。だから、毎回、今度こそナースエンジェルは負けるに違いない
という、言い様もない緊迫感の中で壮絶な変身シーンを拝むように迎えることに
なる。ただ予定調和的に、勝つ為に、戦っているのではない。戦いそのものへと
追いやられる苦悩が、戸惑いが、そして絶望感が、りりかという少女の心の隙間
にあふれかえる一瞬を演出する為に、この物語は作られている。もはやどこにも
余裕など無いのだ。
りりかが当初からこうしたハードロリ志向を目指していたのかどうかについ
ては、ちょっと疑問が残る。ご存知のように原作は純然たる少女漫画であって、
主人公の内面にそれ程の緊張感は強いられていない。たとえ戦っている時でも、
彼女はほとんど無自覚のうちに「勝たされ」ている。ナースエンジェルとしての
使命よりも、普通の小学生りりかの日常の方が強いのだ。TV番組開始当初のイ
メージとしては、当然従来の少女もの戦闘アニメの規範にしたがって必ず勝つこ
とが保証されており、毎回安心して日常の中へ帰って行ける、そうした趣向のお
話を思い描いていた。しかしどうだろう。りりかが純然と戦闘に勝ったと言える
のは、実に第一話のみでは無かったか。そしてあの戦いに限っては、彼女がナー
スエンジェルとして目覚める為の仕組まれた敵、としての嘘くささがあったこと
を考えると、まだ本当の対戦とははっきり言い難いのだ。(僕は、あの鎧を動か
していたのが実は加納ではないかと疑っている。)その後の敵の動向はというと
、この地上にナースエンジェルが現れたことへの興味から、彼女をおびき出しわ
ざわざ変身させることで、戦闘そのものを楽しんでいるような節がある。言わば
敵に踊らされもてあそばれているナースエンジェルの立場、そこには、純粋な意
味での勝利は無い。そうこうしているうちにだんだんと緑のワクチンは失われて
いっているのだ。これがデューイの仕組んだ作戦なのだとしたら、ナースエンジ
ェルは負ける為に勝ち続けていると言って良いのかもしれない。ゲームとして仕
掛けてくる相手に対し、傷つき苦悶しながら本気で戦わねばならないところに、
緑の地球を守る正義のヒロインの凄惨な悲しさがある。かつて戦うことにこれ程
の悲壮感が押し込められたアニメは無かったのではないか。りりかのハードさと
は、敵と味方の間に介在する、戦うことへの認識上のギャップに負うところが大
きい。デューイが何度も口に出して言うように、「余裕を失ったらオシマイ」な
のだ。
正義が圧倒的に不利であることが、毎週もう駄目かもしれないという緊迫感
を与え、その中でかろうじて生き延びてゆく主人公に強い感情移入を促すという
こと、これは当初からの戦闘少女アニメとしての動機付けとは異なった結果を生
んでいるような気がする。はじめからこんな悲痛な戦いを想定して企画されたも
のではないはずだ。ただ普通の小学生が戦う為の理由付けとして、加納先輩とい
う凛々しい男性が設定されたのだと思うし、これと三角関係を構成する星夜とい
う幼馴染みの男の子との軽妙なやり取りの中で、純然たる少女漫画たらんとした
ことは明白だ。なのにこの関係式が次第に深刻化し、りりかの人格に破綻を来す
まで追い詰めていってしまうのは、ひとえにりりかのストーリー作りに関する、
普通とはちょっと違った悪意のない真剣さなのであろうか。ほんの僅かずつでも
りりかの加納に寄せる内面意識に踏み込み、想いを進めてゆくことで、だんだん
恋愛感情と戦闘意識との乖離を引き起こしていく。やがて、戦うことへのそもそ
もの意味にまで還元される時、りりかは先輩の為に戦う自己そのものを破綻へと
導いていってしまう。当たり前なのだ。りりかが加納を好きでいることは、普通
の小学生たらんとする日常的意識なのに対して、カノンが伝説のナースエンジェ
ルに求めている使命感とはグローバルな視点での、個人の感情を踏み越えた超人
的意識なのである。これを同一の問題として片付けることはおよそ不可能だし、
意識的すり替えを行ってりりかを戦闘へと赴かせた加納は、ずるい男だ。原作で
は日常のりりかの感情を優先させることでナースエンジェルとしての危機感を回
避しているのだが、そうしてTVアニメでも初めはそれで手を進めるはずだった
のだが、いかんせん絶対的勝利の無い戦闘のリアリティにここまで踏み込んでし
まったことが、りりかを狂わせている。ナースエンジェルとの意識的分裂が主人
公の小学生としての人格崩壊にまで至ってしまった時点で、禁断の領域に手を染
めてしまった戦闘少女ものの危機を見て取ることが出来よう。
今や、加納がそこに居ることだけではりりかは戦えないし、加納が姿を消し
てしまってもそれを乗り越えられずに戦えないりりかがいる。そして加納が敵と
なって復活しても、当然りりかは戦い切れない。彼女が、そうした甘さを越えら
れるのか? という試練なのだとしたら、このストーリーは残酷に過ぎる。どこ
までやれば済むのか? という疑問を発したい気分だ。もう、りりかの精神状態
はギリギリのところまで来ているし、このまま引きずって行ったら、星夜と共に
地球の為に戦えるりりかになる前に彼女は、破滅してしまうかもしれないではな
いか。デューイに「甘いな」と言われてしまうかもしれないが、りりかの背負っ
ている重圧は一介の小学生には重過ぎる。もう、りりかの女の子泣きを見ている
のが、辛過ぎる。お願いだから泣かないでくれ、りりか!
それにしても、ここまで来てしまった以上、りりかはもっともっと戦うこと
への意識をせんじつめて行くべきだ。最愛の人へ、泣きながら攻撃技を仕掛けて
しまった彼女には、もはやナースエンジェルとして立っていることの意味を加納
への憧憬としてすり替えることなど許されないはずだからだ。どうしてナースエ
ンジェルなのか? どうして戦っているのか? 何の為に? 誰の為に? そし
て、戦うことと癒すことの違いとは? これらの疑問の解決無くしてナースエン
ジェルの存在意義は語れぬはずだ。けれど僕は、りりかが黒のワクチンを手にし
た時、彼女自身の苦痛と衝撃の内に邪悪な色が抜けて緑の輝ける色に変化したの
を見て、ある種のカタルシスを感じた。ああ、この娘は人類の「癒し」の為に生
誕したのだな、と。そして期待。たった一人、この地上で黒のワクチンを緑のそ
れに変える力を持った者! ナースエンジェルの存在そのものが、濁悪にまみれ
た地球の黒い影を浄化し得るのだという極まった設定の中に、絵空事ではないこ
の地球そのものの未来的姿を見た気がした。りりかはクイーンアース為に、女王
ヘレナの為に戦っているのではないのだろう。カノンも、クイーンアースの使者
でありながらその実、この地球の平和の為にやってきた重大な異星の客である。
誰しもがりりかを見ている。そして、救いを求めているのだ。選ばれし少女の秘
めたる無限の可能性に、地上の生命の未来を重ねている。たった一人、りりかだ
けが命の輝きを守ることが出来るがゆえに、敵も味方もこぞってりりかの元へ群
れ集う。ダークジョーカーという具象はその実、地上の汚染と破壊という自己破
滅意識にとらわれた欠陥生物、人間の内面的空像に他ならない。自ら環境に維持
された生命体でありながらその生命の永続的存続を否定し、自然を排除しながら
欲望の充足の為に資源の搾取におぼれる愚かな人類の生き姿が投影されたものだ
。生命体として自己否定のベクトルこそが、ダークジョーカーという組織の矛盾
に満ちた存在性に見事に写像されているではないか。彼等の正体や目的は未だ曖
昧で観念的だが、少なくとも生命そのものの否定に根差した地上の静寂たる支配
を理想としていることだけは伝わってくる。生き物の喧騒を嫌った、ネガティブ
な生命認識が彼等の征服欲を駆り立てている。そうした自己欺瞞とは、いわば地
上の人間そのものの内部に巣くう悪霊であり、拭いがたい病いなのである。神に
創られた遺伝的欠陥を根絶し、人類の進化論的逆説を正常な機能に戻す為に、天
使は地上に降り立った………そのように僕は思う。ナースエンジェルは、人々の
心の癒しの為に降臨した天使であると同時に、地上の生命そのものが生み出した
自己浄化システムに他ならない。生命が自らの悪しき部分を作り替える為に、り
りかはこの世に居る。キット居る。りりかは普通の女の子なのだから。
さて、こうしたナースエンジェルの崇高な役割や迫り来る危機感は、真面目
なお話作りの結果として作品に重みを与えてくれるのと同時に、過ぎたる部分は
どうしても全体に暗いトーンをかぶせかねない。例えば前述の、りりかがカノン
にさんざんいたぶられ絶望に駆られて泣き出してしまう辺りに於いて、どれ程の
人が少女の心情に共感を得られただろうか? かなりの層は、りりかの心理的な
内面に至る前に一介の小学生がこんな形でいじめ抜かれることの異常さに気付き
、非道い・かわいそうすぎるという意見の方が先立つように思うのだ。正直な話
、深刻な影を落とせば落とす程、本来の視聴者は遠ざかって行きかねない懸念が
ある。本来の、というのは何も子供が見なくなるという程度のことを語っている
のではない。玩具の売り上げに支えられたアニメ製作の実情を考えるとそれも重
大な問題だが、そういう反応を通じてみて、そもそもりりかのキャラクター性を
愛しているまともなファンの人々の通常認識を顧みる必要があるということだ。
せっかくナースエンジェルというキュートな天使をデビューさせたのだから、彼
女が存分に動き回れるような軽快な状況作りというものも当然望まれるべきだ。
戦いに向ける悲壮感とはまた別の、生命に癒しの光をともすナースエンジェル本
来のあたたかみのあるイメージをより熱心に追求すべきように思う。泣きべそば
かりかいているりりかはきっと、僕たちの趣味には合わないはずだ。もっと凛々
しく、もっと毅然と、静かに戦い激しく癒す、そういうナースエンジェルの姿を
あくまで求めていきたい。シリアスなお話作りによる世界観の重厚さとはまた別
枠の、ヒロイックファンタジー的な爽快感というものを戦闘の場面に加えていっ
てほしいものだし、りりかのもたらす癒しの根源は、そもそもに於いてそうした
場面に触発される心の中のカタルシスなのではないか。神々しいまでのナースエ
ンジェルの活躍があってこそ、生命あふれる地球を守る者の絶対的正義を敢然と
語り尽くせるものと思う。
だから今もって救われねばならぬのは心の底に傷を負ったりりか当人である
という矛盾こそが、はからずも現在のシリーズに重くのしかかる問題点であると
指摘出来るだろう。これ以上主人公の病を深化させてしまってはいけない。僕達
の求めているりりかは、普通の小学生として笑い、怒り、喜び、泣き、友と戯れ
る女の子の姿だ。普通の………これがポイントだ。誰か特別な人が地球を救った
り悪しき心と戦ってくれるんじゃないってことを、皆に知らしめなければ。りり
かはそれこそ、君の隣りに居る女の子でなければならない。
ナースエンジェルの理念も、ダークジョーカーの野望も、クイーンアースの
未来も、皆、この地上でのお話だからね。そうした、等身大的「近さ」を、森谷
りりかのお茶目な言動の中に求めていきたいのだ。
了